ドレヴリャーネ族との戦いと、イーゴリの死
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/17 06:23 UTC 版)
「イーゴリ1世」の記事における「ドレヴリャーネ族との戦いと、イーゴリの死」の解説
先代のオレグの時代より、キエフはウクライナ地方の部族に巡回徴貢を行っていた。そのうちの1部族・ドレヴリャーネ族はその待遇に不満を持ち、オレグの死の直後に蜂起をした経緯がある。イーゴリ1世の治世に彼らは平静を保っていたが、ドレヴリャーネ族の長・マルは943年ころ献納を贈るのを止め、イーゴリ1世の使者にも反抗的態度をとる。945年、イーゴリ1世は自ら兵を率い、ドレヴリャーネ族の本拠地・イスコロステニ(現在のコーロステニ)に進軍した。『原初年代記』によると、ドルジーナたちがイーゴリに対して、スヴェネリドの年少親兵隊(オトログ)に比べて自分たちの着物や武器は貧しい。貢物を取りに行こう」と頼んだからである。イーゴリは彼らの願いに応えて、ドレブリャーネ族への遠征を行った。イーゴリとドルジーナたちは、ドレヴリャーネ族から、従来の貢物にくわえ、さらに貢ぎ物を納めさせた。ほとんどのドルジーナは帰国したが、イーゴリはさらに財物を望んで、少数のドルジーナとともにイスコロステニに引き返そうとした。ドレヴリャーネ族は候マール(マル)と、次のように決定した。「もし彼を殺さねば、我らはことごとく滅ぼされるであろう」イスコロステニの町からドレヴリャーネ族が出陣し、イーゴリ一行を全滅させた。イーゴリの墓はイスコロステニにある。ビザンティンの歴史家、レオン・ディアノコスの記録によれば、イーゴリ1世は2本のカバノキの間に縛り付けられ、たわめた木の弾力を利用した方法で八つ裂きの刑に処されたという。二つに裂かれたという説もある。 イーゴリ1世の跡を幼少の息子、スヴャトスラフ1世が継ぎ、オリガが摂政となった。オリガは夫の敵であるマルはじめドレヴリャーネ族を殺戮し、イスコロステニの街を焼き払った。
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