ドストエフスキーとの交際
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/16 07:01 UTC 版)
「ポリーナ・スースロワ」の記事における「ドストエフスキーとの交際」の解説
1861年、スースロワはフョードル・ドストエフスキーが教える講義に顔を出している。すでにドストエフスキーは有名な作家になっており、この講義も若者の間で非常に人気があった。当時ドストエフスキーは40歳、スースロワが21歳だった。リュボーフィの回想によれば、スースロワは「ドストエフスキーを追いかけまわし、あらゆる手段でその気を引こうとしていた。ドストエフスキーに気づかれなかったスースロワは、ついにラブレターを書いて送った」。別の逸話によれば、スースロワはドストエフスキーに自分の作品を見せ、アドバイスを頼んだ。小説としては酷いものだったが、若く美しい女に魅力を感じたドストエフスキーは創作を教えることを約束したという。しかしスースロワの小説を読んで気に入ったドストエフスキーが作者に会いたがった、という話も伝わっている。 2人の交際は複雑で痛ましいものでさえあったが、特にドストエフスキーには苦労が多かった。作家活動に心血を注いで健康は損なわれており、経済的にも苦しんでいた時期でもあった。その上スースロワは傲慢で人を操りたがり、嫉妬深い性格でしきりにドストエフスキーへ「肺病の妻」マリアと離婚するよう催促していた. 。「病的なほど自分本位な女」であり、「とてつもない利己心と自尊心」で他人の欠点を許さなかった、と後にドストエフスキーは記している。そしてマリアが1865年に亡くなると、スースロワに結婚を申し込むのだが、断られてしまう。 ドストエフスキーの2番目の妻アンナ・スニートキナと違って、スースロワはドストエフスキーの本をほとんど読まなかった。作品を尊敬しているわけでもなく、単純に恋人として接していたのである。ドストエフスキーもスースロワに宛てて「かわいいひと、君を安っぽい至福の境地といったものに誘おうというつもりはありません」という手紙を書いている。破局後、スースロワはこういった手紙を初めとしたあらぬ疑いをまねくような文書を焼き捨てている。そして1867年、ドストエフスキーはアンナ・スニートキナと結婚した。
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