ドイツ皇帝・プロイセン王即位
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/05 14:55 UTC 版)
「ヴィルヘルム2世 (ドイツ皇帝)」の記事における「ドイツ皇帝・プロイセン王即位」の解説
1888年3月9日に祖父であるドイツ皇帝・プロイセン王ヴィルヘルム1世が91歳で崩御した。父フリードリヒ皇太子がフリードリヒ3世としてドイツ皇帝・プロイセン王に即位し、ヴィルヘルムはその皇太子となった。しかしフリードリヒ3世は即位時すでに不治の病にかかっていた。フリードリヒ3世はビスマルクの片腕である保守派の内相ロベルト・フォン・プットカマー(ドイツ語版)を解任し、自由主義者としての矜持を示した後、6月15日に在位99日にして崩御した。 皇太子ヴィルヘルムがただちに即位し、ヴィルヘルム2世として第3代ドイツ皇帝・第9代プロイセン王となった。当時29歳であった。帝政ドイツでは議会に比べて皇帝に大きな権力があったため、国政には皇帝の意志が大きく反映された。そのためドイツ皇帝位は「世界で最も力のある玉座」とも評されていた。 即位したばかりの頃のヴィルヘルム2世は覇気満々で親政を決意していた。「ホーエンツォレルン家の使命」に背を向けた自由主義者の父が早く亡くなり、自分が若くして皇帝となったことを運命的に捉えていたという。 ヴィルヘルム2世は父の崩御を知るとただちにポツダムの父の宮殿に軍隊を派遣して宮殿を包囲し、母ヴィクトリアを一時的に幽閉している。これは父フリードリヒ3世がヴィルヘルム2世の政策や性格を批判している日記をつけていたためという。それを知っていたヴィルヘルム2世は母ヴィクトリアがイギリスか市民にその日記を洩らすと疑っていたらしい。 またヴィルヘルム2世は父に解任されたプットカマーを内相に戻そうと考えていたが、ビスマルクが「若い君主は先代に拒否された者と関わるべきではない」として反対したため沙汰やみとなった。 祖父ヴィルヘルム1世の崩御。ヴィルヘルム1世の傍に駆け寄っているのがヴィルヘルム。(アントン・フォン・ヴェルナー画) 父フリードリヒ3世の棺の前に立つヴィルヘルム2世。ベルリン大聖堂地下。 1888年6月25日にヴィルヘルム2世が初めて行った帝国議会開会宣言。
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