トカラ語の命名
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/01 09:18 UTC 版)
西域北道(天山南路)の各オアシス(カシュガル、クチャ、カラシャール、トルファン)から見つかった写本は、他の地域から発見された写本とは異なる言語で記されており、A種とB種の方言に分けられることもわかった。しかし、初めのうちはこの不明言語の命名を容易に決定することができなかった。そこへ新たにテュルク語で書かれた古い『弥勒下生経』が見つかり、その跋文に「キュセン語からトクリ語に訳し、トクリ語からテュルク語に訳した」という一文があったので、この不明言語はトクリ(Toxri)語すなわちトカラ(Tokhara)語であろうという説が有力となった。さらにその後の研究により、この不明言語は『弥勒下生経』にあるトクリ語であることが明らかとなってきたため、正式にトカラ語と称するようになった。一方、A種とB種との間に大きな相違があるため、両方をトカラ語と呼ぶべきなのか、それとも一方のみをトカラ語と呼ぶべきなのかについて議論が起きた。1930年(昭和5年)、そこへ日本の羽田亨が『弥勒下生経』の跋文にある「キュセン(Küsän)語」はクシャン(Kushan)語ではなく、亀茲(きじ)語であると論証し、1934年にはフランスのポール・ペリオもその説を支持したため、今日ではA種方言の方をトカラ語、B種方言の方を亀茲語と称するようになった。
※この「トカラ語の命名」の解説は、「トカラ語」の解説の一部です。
「トカラ語の命名」を含む「トカラ語」の記事については、「トカラ語」の概要を参照ください。
- トカラ語の命名のページへのリンク