ディストモ虐殺事件
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/12 13:33 UTC 版)
第二次世界大戦中の1944年6月10日、当地を占領していたドイツ軍(正確には武装親衛隊の第4SS警察装甲擲弾兵師団)は、住民に対する「集団的懲罰」を行った(ディストモの虐殺)、民間人に対する集団的懲罰は、ドイツ占領下のギリシャで行われた戦争犯罪の一つである。ディストモの村人はゲリラと無関係であったにもかかわらず、ドイツ兵3名が地元のゲリラによって殺害されたことに対する「報復」として、生後2か月の乳児から86歳の老人までの218名が殺害された。 数十年後、ギリシャの裁判所は、ギリシャ人犠牲者に対する賠償を認める判決を下した。しかし、ドイツ政府はギリシャ政府に対し、判決を無効化するよう政治的な圧力をかけた。ギリシャ政府の判決を行使するために、ギリシャ当局にとっては不本意なことながら、事件はイタリアの法廷に持ち出されて争われることになった。裁判はイタリア北部・メナッジョのVilla Vigoniで開催された。ドイツ政府はイタリア最高裁の判決を不服とし、国家無答責 (State immunity) を主張して国際司法裁判所に上告している。
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