ディアドコイ戦争の最有力者
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/12 06:00 UTC 版)
「アンティゴノス1世」の記事における「ディアドコイ戦争の最有力者」の解説
エウメネスとの戦いにおいて、バビロニア太守セレウコスと同盟していたアンティゴノスだったが、エウメネスを倒すと、これを疎んずるようになり両者の関係は急速に悪化した。紀元前315年、アンティゴノスはセレウコスの領土を奪い、セレウコスはエジプトのプトレマイオスのもとへ逃亡した。更なる勢力の拡大を目指すアンティゴノスはカッサンドロスとの同盟を破棄し、シリアから海路を経由してギリシア(カッサンドロスの勢力圏)に遠征を開始した。こうしてアンティゴノスと他のディアドコイとの対立は決定的となった。 紀元前312年、アンティゴノスに反撃せんとプトレマイオスがセレウコスを伴ってシリアに攻め込んだ。アンティゴノスの息子デメトリオスが迎撃するも敗走し(ガザの戦い)、アンティゴノス自らがシリアに出陣した。しかし、その間隙を突かれ、プトレマイオスの支援を受けたセレウコスがバビロニアに帰還。これを奪回されてしまった。アンティゴノスはセレウコスを討伐しようとするも手古摺り(バビロニア戦争)、その隙にプトレマイオスが東地中海沿岸で勢力を伸ばしたため、プトレマイオスと再び矛を交えることとなった。 紀元前306年にサラミスの海戦で、息子デメトリオスがプトレマイオスに対し勝利したのを受け、彼と共に王位に就くことを宣言した。アンティゴノスが王位を宣言したのに伴い、他のディアドコイも王を称するようになった。アンティゴノス・デメトリオス父子は続くロードス包囲戦でも優位に戦いを進め、ギリシアに侵攻した。紀元前302年、アンティゴノスは自身を盟主とするヘラス同盟をギリシアで結成した。こうしたアンティゴノスの勢力の更なる伸張を恐れた他のディアドコイ(セレウコス・プトレマイオス・カッサンドロス・リュシマコスの四者)は反アンティゴノス同盟を結んで対抗した。 紀元前301年、アンティゴノスはこの同盟を粉砕せんと小アジアのイプソスでセレウコス・リュシマコス連合軍と決戦に及ぶも、デメトリオスの部隊と分断されて孤立したアンティゴノスの本隊は打ち敗られ、自身は投槍を受けて戦死した(イプソスの戦い)。82歳であったと言われている。ディアドコイ中最有力であったアンティゴノスが倒れたことで、彼の大望でもあったアレクサンドロス帝国の再統一は不可能となり、分裂が決定的となった。
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