ディアドコイ戦争にて
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/05/18 15:36 UTC 版)
「カルディアのエウメネス」の記事における「ディアドコイ戦争にて」の解説
この頃マケドニア内部では、ペルディッカスと大王の遠征中マケドニア本国を守っていたアンティパトロスとが対立を深めており、ペルディッカス派と見られていたエウメネスは、アンティパトロスと共に行動していたクラテロスと対戦することとなった。 両者は紀元前321年に小アジア北西部のヘレスポントスで戦闘を行い、敵のクラテロス・ネオプトレモスの両将を戦死させた。しかし、クラテロスはマケドニア人の間で絶大な人気があったために、クラテロスを殺したエウメネスは栄誉よりも反感を買うこととなった。またその2日前には、プトレマイオスを攻めてエジプトに遠征中だったペルディッカスが配下の将軍たち(ペイトン、アンティゲネス、セレウコス)の裏切りによって暗殺されており、後ろ盾を失ったエウメネスは同年のトリパラディソスの軍会で、庇う者なく討伐を宣告された。エウメネスは帝国全軍総司令官として追討の任に就いたアンティゴノスと戦うも(オルキュニアの戦い)、残った他のペルディッカス派の諸将との連携に失敗するなどして追い詰められ、カッパドキアのノラに包囲された。 しかし、紀元前319年に帝国摂政位に就いていたアンティパトロスが病没し、その地位の後継者に指名された部下のポリュペルコンと我こそが父の後継者たらんとしていたアンティパトロスの子カッサンドロスが対立すると、状況が転換した。カッサンドロスがアンティゴノスと手を結んだため、これに対抗する必要があったポリュペルコンがエウメネスに接近したのである。エウメネスはポリュペルコンの支援を受けて、ノラの包囲を抜け出して勢力を盛り返し、メソポタミア地方で大王の親衛隊銀楯隊を含む軍団を掌握した。この軍を率いて紀元前317年、エウメネスは再びアンティゴノスと現在のイラン領・パラエタケネで矛を交えたが、引き分けに終わった。配下の軍団は完全に彼に服していたわけではなく、そのために統制が取れず危機的な状況に陥ることさえあった。
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