テティス崇拝とは? わかりやすく解説

テティス崇拝

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/09 15:41 UTC 版)

テティス」の記事における「テティス崇拝」の解説

古代何人かの著述家がテティス崇拝について言及している。歴史家ヘーロドトスペルシア戦争関連してテッサリアー地方のテティス崇拝について言及している。テルモピュライの戦い(前480年)に先立ち、クセルクセース1世率い大海軍がギリシア到達したとき、マグネーシア地方のカスタナイアー市(Kasthanaie)とセピアス(Sepias)岬の間にある浜辺停泊した。しかしペルシア軍は3日3晩激しい嵐に見舞われ400隻もの軍勢失った。そのためペルシア軍はイオニア人助言従い、セピアス岬を聖域とするテティスネーレーイデスに対して嵐の鎮静化祈願したという。このセピアス岬の正確な位置不明瞭である。20世紀初頭にA. J. B. ウェイスA. J. B. Wace)とJ. B. ドループ(J. B. Droop)の2人はセピアスの発掘調査行ったが、神殿遺構発見されなかった。 パウサニアースによるとテティススパルタ聖域持っていた。アギス朝のアナクサンドロス王(在位:前640年-前615年頃)の時代スパルタ離反したメッセニア人を平定するためメッセニア地方侵攻し女たち捕虜にした。その中にテティスの女祭司クレオーがおり、王の妻レアンドリスは彼女がテティス木彫神像持っていることに気がつくと、王に願って彼女を譲り受け2人テティス神殿造営した。また木彫神像非公開のまま聖域守護されていた。これによるとスパルタのテティス崇拝はメッセニア地方まで遡りスパルタでの崇拝紀元前7世紀始まってパウサニアース生きた2世紀でも続いていたことになる。 ピロストラトス言及するテッサリアー地方アキレウス崇拝によると、テッサリアー人ドードーナの神託によってトロイア地方まで航海しアキレウス供儀行った。彼らは上陸する際に船上からテティス讃歌唱えなければならなかった。しかし彼らが供儀習慣止めてしまったとき、アキレウステティステッサリアー地方災厄もたらしたという。

※この「テティス崇拝」の解説は、「テティス」の解説の一部です。
「テティス崇拝」を含む「テティス」の記事については、「テティス」の概要を参照ください。

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