チルバへの反発
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/06/13 09:45 UTC 版)
「複数政党制民主主義運動」の記事における「チルバへの反発」の解説
チルバ政権の任期満了が近づいたころには、強権支配に反発した有力者多数がMMDを離反し、党の分断が進んだ。また依然としてUNIPも影響力の強い野党として活動していた。政権存続を危ぶんだチルバ政権は、野党候補を振るい落とすため、露骨な制度変革を実施。両親がザンビア生まれでない人物は大統領にはなれないようにするなど、カウンダ(両親はマラウイ生まれ)に対する封じ込めは特に厳しかった。これに反発したUNIPなど野党陣営は選挙をボイコット。結局、1996年の議会選ではMMDが150議席中131議席を獲得して圧勝。大統領選でもチルバが再選された。 1997年10月28日にはチルバ率いるMMD政権の転覆を狙う反乱軍「救国評議会」によるクーデターが発生したが、鎮圧に成功した。UNIPのカウンダやザンビア民主会議のディーン・ムンゴンバなど野党指導者多数が、クーデター関与の容疑で逮捕された。だが強権支配体制を緩めないチルバに対し、次第にMMD内からも反チルバの動きが見え始めるようになった。 2001年初め、チルバ支持者がデモを実施。3選を禁じた憲法規定の改正とチルバ続投を求めた。だが野党に加え、MMDメンバーの多くもチルバ続投に否定的な態度を貫き、憲法改正は実現されなかった。
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