ダッハウにおける解放後の復活祭
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/17 17:05 UTC 版)
「ダッハウ強制収容所」の記事における「ダッハウにおける解放後の復活祭」の解説
解放の数日後は、正教会の復活大祭であった。カトリック司祭たちは通常の主日のミサを祝ったが、ギリシャ人やセルビア人、ロシア人などの正教の司祭数名はSSのタオルから作った間に合わせの祭服を纏って復活大祭を祝った。ギリシャ人やセルビア人、ロシア人数百人の信徒たちも集まって式が行われた。ラールという名前の囚人は、この時の様子をこう述べている。 東方正教会の歴史で1945年のダッハウのような復活大祭は恐らくなかっただろう。セルビア人の輔祭と共にギリシャ人とセルビア人の司祭が、青色と鼠色の囚人服に間に合わせの祭服を纏ったのだ。その時ギリシャ語からスラヴ語に変えて聖歌を歌い、再びギリシャ語に戻した。復活大祭のカノンなど全ては記憶に基づいて歌った。「初めに光ありき」も同じだった。最後に聖ヨハネの説教も同じだった。聖なる山(アトス山の別称)から来た若い司祭が、我々の前に立ち、死ぬまで忘れそうもない熱狂が伝わる中で歌った。聖ヨハネ自身がこの司祭を通して我々にまた世界に語りかけたようだ! 同地に建立された正教の聖堂には収容所の門を出る囚人を導くハリストス(キリスト)を画いたイコンが掲げられており、有名である。 なお、ダッハウ解放の際のアメリカ合衆国第7軍については、『アメリカ合衆国第7軍作戦報告』第3巻382ページを参照のこと。
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