ダッハウ日記
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/04 03:41 UTC 版)
「エドガー・クプファー=コベルヴィッツ」の記事における「ダッハウ日記」の解説
1940年11月11日、クプファー=コベルヴィッツはダッハウ強制収容所に、ゲシュタポによって収容され、1942年11月から軍需工場「Schraubenfabrik Präzifix(プレツィフィクス・スクリュー工場)」に奴隷労働を提供していたダッハウ強制収容所の収容所支所(英語版)の一つで事務員として働いた。この間、彼は命の危険を冒しながら、1942年11月20日から1945年5月4日まで、後に『ダッハウ日記』として知られた手書きの文書を書き続け、その総ページ数は1800ページにも及んだ。収容所内で、この日記を書き続けている間、彼は日記を様々な場所に隠し、最終的には1944年10月に、アルミ箔、布、油紙で包んだ日記を土中に埋めた。 クプファー=コベルヴィッツは、1945年4月29日にアメリカ軍がダッハウ収容所を解放した1週間後に、自分が日記を埋めた場所をアメリカ軍に知らせた。日記は湿気を帯びてしまっていたが、大部分が保全された。2年後、この日記は、ニュルンベルク裁判において証拠として用いられることになった。
※この「ダッハウ日記」の解説は、「エドガー・クプファー=コベルヴィッツ」の解説の一部です。
「ダッハウ日記」を含む「エドガー・クプファー=コベルヴィッツ」の記事については、「エドガー・クプファー=コベルヴィッツ」の概要を参照ください。
- ダッハウ日記のページへのリンク