タクト・シュリー・ダムダマー・サーヒブでの滞在
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「グル・ゴービンド・シング」の記事における「タクト・シュリー・ダムダマー・サーヒブでの滞在」の解説
グルはムクツァルから、Rupana、Bhander、Gurusar、Thehri Bambiha、Rohila、Jangiana、Bhai Ka Kotと移動した。Chatianaでは、ムクツァルで彼のために戦ったシドゥーが、グルが滞納金を彼らに支払わなかったためにグルの進行を止めると脅すこともあった。周辺地域からシク教徒が十分な金品を受け取ってきたため、グルはすべての滞納金を支払うことが可能となった。しかし、Brarのリーダーであったチョードリー(英語版)・ダーナーは彼らを代表してグルに謝罪し、自身に対する支払いを受けることを拒否した。彼の要請により、グルはダーナーの生まれ故郷であるMehma Swaiを訪ねた。グルはラキーの樹海 (Lakhisar)を通過して彼の旅を続けた。彼が付近を通過したLakhiでは多くの人々がカールサーに加入した。 Chaudhari Dallaという地方君主はグルの自身の領地への訪問を歓迎し、タクト・スリー・ダムダマー・サーヒブ(英語版) (別名:Talwandi Sabo Ki) を彼に提供した。彼は道すがらChatiana、Kot Sahib Chand、Kot Bhai、Giddarbaha、Rohila、Jangirana、Bambiha、Bajak、Kaljhirani、Jassi Bagwali、Pakka Kalan、Chak Hira Singhを通過した。グル・ゴービンド・シングは1706年1月20日にTalwandi Saboに到着し、数ヶ月間そこに滞在した。現在ではダムダマー・サーヒブ (休憩所) と呼ばれている。グルは周辺地域の村で布教活動を行い、カールサーに数名が加入した。 グルがタクト・スリー・ダムダマー・サーヒブにいると気づき、ワズィール・カーンはチョードリー・Dallaに対してグル・ゴービンド・シングを彼に引き渡すよう求める手紙を送った。しかし、ワズィル・カーンの脅し文句と報酬の約束にも関わらず、チョードリーはこれを拒絶した。ワズィール・カーンはDeccanにいたムガル帝国の王に報告した。王はワズィル・カーンに対して書かれたDallaの手紙とを受けたと同時にグルのザファルナーマー(英語版)も受け取った。彼はワズィル・カーンに対して、グルに課されているすべての制限を取り除き、嫌がらせをやめるよう命じた。 グルがアナントプルから撤退して川を渡った際に、彼の著作品は破壊されていた。彼はグル・グラント・サーヒブをBhai Mani Singhに決定した。タクト・スリー・ダムダマー・サーヒブでは数多くの詩人と学者がグルの周辺に集まり、グルのカーシー (ワーラーナシー) として知られるようになった。アナントプルで彼と離れ離れになっていたグルの妻もまたタクト・スリー・ダムダマー・サーヒブで彼に合流した。グルはこの場所で再び軍を結成し、多くのドグラーやラトーレー(英語版)、シドゥー(英語版)を彼の下に組み込んだ。
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