ソビエト連邦解体とチェチェン独立の動き
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1985年にソビエト共産党書記長に就任したミハイル・ゴルバチョフはソビエト連邦の政治体制の改革「ペレストロイカ」に着手した。ゴルバチョフは、従来のソビエト連邦を一旦解体し、「ソビエト主権共和国連邦」(露: Союз Советских Суверенных Республик)として再生させようと法整備を進め、また新連邦に加入しない共和国に向けて「ソビエト連邦離脱法」(1990年4月30日)を法制化した。 ロシアを始めチェチェンを含む15構成共和国は1990年2月5日に採択された「ソ連共産党政治綱領」に基づき相次いで主権独立宣言を行った。チェチェンでは11月23日に全チェチェン協議会がグロズヌイで開催され、チェチェン人全民族の代議員が出席した。11月27日には「ソビエト連邦からの独立及びチェチェン人の主権宣言」が全会一致で批准。翌年6月、ジョハル・ドゥダエフ将軍らの全チェチェン協議会はクーデターにより共産党政権を打倒し政権を奪取。以来、チェチェンは事実上の独立状態となる。 1991年8月20日にゴルバチョフは主権ソビエト連邦条約を調印する予定であったが、その前日ゲンナジー・ヤナーエフ副大統領ら保守派による反改革クーデターにより拘束される。クーデターはロシア共和国大統領のボリス・エリツィンによって失敗し、ゴルバチョフは解放されたもののその求心力を失い8月24日にソ連共産党書記長を辞任、中央委員会に自主解散を求め、ソ連共産党の資産を凍結させた。
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