セヴェロ・オチョアとは? わかりやすく解説

Weblio 辞書 > 辞書・百科事典 > デジタル大辞泉 > セヴェロ・オチョアの意味・解説 

オチョア【Severo Ochoa】


セベロ・オチョア

(セヴェロ・オチョア から転送)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/09/24 14:44 UTC 版)

Severo Ochoa
セベロ・オチョア
セベロ・オチョア(1958)
生誕 (1905-09-24) 1905年9月24日
スペイン王国 アストゥリアス県ルアルカ
死没 1993年11月1日(1993-11-01)(88歳没)
スペイン マドリード
国籍 アメリカ合衆国
研究分野 分子生物学
研究機関 ニューヨーク大学
主な業績 mRNAの人工合成
影響を
与えた人物
アーサー・コーンバーグ
主な受賞歴 ノーベル生理学・医学賞 (1959)
プロジェクト:人物伝
テンプレートを表示
ノーベル賞受賞者
受賞年:1959年
受賞部門:ノーベル生理学・医学賞
受賞理由:RNAおよびDNAの生合成に関する研究

セベーロ・オチョア・デ・アルボルノス(Severo Ochoa de Albornoz, 1905年9月24日 - 1993年11月1日)は、スペイン出身のアメリカ合衆国生化学者で、1959年度のノーベル生理学・医学賞の受賞者である。

来歴

オチョアはスペインのアストゥリアス県ルアルカで、弁護士でビジネスマンの父セベーロ・マヌエル・オチョアと母カルメン・デ・アルボルノスの間に生まれた。父親はオチョアが7歳の時に亡くなり、母子はマラガに移住し、ここでオチョアは高校まで通った。彼はスペインの神経科学者でノーベル賞受賞者のサンティアゴ・ラモン・イ・カハールの著書を読んで生物学に興味を持った。1923年、彼はマドリード大学の医学部に入学し、カハールの元での研究を希望したが、カハールは退官した後だった。カハールの弟子で当時教授、のちに政治家に転じて首相となるフアン・ネグリンの勧めによりクレアチンの研究を始める。1929年に卒業し、1930年に医学博士号を取得した。1931年にカルメン・ガルシア・コビアンと結婚したが、子供はいない。

それ以来1938年まで、彼は様々な場所で様々な人と様々な地位で仕事をした。例えばオットー・マイヤーホフハイデルベルクのカイザー・ウィルヘルム医学研究所に客員助手として彼を招いた。1938年から41年まで、彼はオックスフォード大学で助手として働いた。その後はアメリカ合衆国に移住し、再び様々な大学で様々な地位について研究を行った。1942年に彼はニューヨーク大学医学部の助手になり、1945年に生化学の助教授、1946年に病理学の教授、1954年に生化学の教授となった。

1956年にアメリカ合衆国の国籍を取得。

オチョアは1985年までタンパク質生合成とRNAウイルスの複製の研究を続け、スペインに帰国して政府や科学者にアドバイスを行った。

栄誉

1959年にRNA生合成に関する研究でノーベル生理学・医学賞を受賞した。彼はまた、1963年にパウル・カラー・ゴールドメダル、1979年にアメリカ国家科学賞も受賞した。オチョアはマドリードで亡くなり、1970年代から計画されていた新しい研究所は彼の名前から命名された。また、小惑星番号117435の小惑星セベロチョア (小惑星)(Severochoa)も彼の名前にちなんでいる。

外部リンク



英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「セヴェロ・オチョア」の関連用語

セヴェロ・オチョアのお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



セヴェロ・オチョアのページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
デジタル大辞泉デジタル大辞泉
(C)Shogakukan Inc.
株式会社 小学館
ウィキペディアウィキペディア
All text is available under the terms of the GNU Free Documentation License.
この記事は、ウィキペディアのセベロ・オチョア (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。 Weblio辞書に掲載されているウィキペディアの記事も、全てGNU Free Documentation Licenseの元に提供されております。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS