スマトラ潜行
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/07/08 12:53 UTC 版)
一行は1945年8月21,22日にスマトラ島パカンバルに到着した。パカンバルから、現地部隊のトラックを借り、少人数のグループに分かれてそれぞれアチェ州に向かう計画だったが、バンキナン(英語版)にあった輸送大隊は連合軍への引渡しを理由にトラックの貸出しを渋り、移動に十分な台数を確保できなかった。このため物資を現地住民に投げ売りするなどして減らし、更に茨木少佐は後から到着した総軍班の機関員にパカンバル近くのロカン河(英語版)の周辺に展開することを指示した(リオー班)。 機関幹部は第25軍司令部が置かれていたブキチンギへ移動し、近藤大尉らが同司令部の参謀・池田少佐を訪ねて動静を伺うと、同少佐は既にシンガポールの第7方面軍司令部から連絡を受けていて、行動を中止して方面軍の指示があるまでブキチンギに止まるよう説得、指示に従わないなら反乱軍として逮捕する、と迫った。 第25軍司令部は、茨木機関のトラック隊のブキチンギ通過を見送った後に、隷下の部隊に逮捕命令を出し、北部スマトラに駐屯する近衛第2師団(本部・メダン)に機関員を逮捕するよう連絡、トラック隊は、シボルガ、タルトン、シボロンボロン、バリゲ、プラパット、ペマタン・シアンタルと縦走した後、ほとんどのグループが近衛第2師団の守備区域内で拘束され、メダンの収容所に抑留された。メダンを通過したグループも、クアラシンパン、パンカラン・ブランダン、ビルン、ムラボーなど各地で現地部隊によって保護・拘束され、連絡を受けてやってきた機関幹部らから計画中止の命令を聞いて、メダンの収容所に合流した。茨木少佐はじめ機関幹部は、機関員の大部分が近衛第2師団に捕えられた後にメダンに入り、同師団の参謀部やブキチンギの第25軍司令部とその後の展開や特操の扱いどうするか話合っていた。
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