リオー班
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/07/08 12:53 UTC 版)
総軍班のうち、リオー班の特操出身者35名は、茨木少佐から「無線や武器を使わず、10年を目標に自活し、独立運動は側面から支援するように」との指示を受けて、ロカン河畔のウジャンバト一帯を展開地点に選定し、これより下流のコタインタン、ラントベルギアン周辺で数名ずつ分かれて付近の住民の許可を得て住み着き、物々交換で食料を得るなどして自活することになった。 早々にイスラム教に改宗し、割礼を受けた隊員もいたが、言葉が通じないため住民との意思疎通は難しく、暑さのため体調を崩し感染症に罹るなど、生活は過酷で、8月下旬にメダンで展開中止が決まった後、茨木少佐の指示で機関員が2度ウジャンバトに来て復帰を促し、9月下旬にはブキチンギの第25軍司令部の情報将校・松岡大尉が各班の代表者を集めて説得、その後も何度か潜伏を続ける隊員の捜索が行われ、1946年の夏までに、27人はメダンに合流し、2人は日本に帰国した。残る6名の隊員は行方不明となった。
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