スペイン、ドイツ挑戦
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/07/01 02:47 UTC 版)
「イェスパー・グレンケア」の記事における「スペイン、ドイツ挑戦」の解説
2004年7月、恩師でもあったチェルシー監督クラウディオ・ラニエリが解任されると、グレンケアは220万ユーロの売却額で同じくプレミアリーグのバーミンガム・シティFCと放出された。しかし、バーミンガムではスティーヴ・ブルース監督の戦術に適応するまで時間が掛かり、12月までに16試合には出場したものの、無得点なおかつフル出場もわずかだった。しかし、EFLカップのリンカーン・シティFC戦でクラブ唯一の得点を挙げている。2004年12月、アトレティコ・マドリードに200万ユーロで移籍した。アトレティコ・マドリードではセサル・フェランド監督にサイドでの突破力を買われ、レギュラーに定着し、フェルナンド・トーレスの得点をアシストするプレーが多くなった。しかし、グレンケア自身はスペインの環境に馴染むことができず、2004-05シーズン終了後に移籍リクエストをクラブに提出。その夏に400万ユーロほど増額された600万ユーロという移籍金でドイツのVfBシュトゥットガルトに引き取られた。当時のシュトゥットガルトは、イタリア人監督ジョヴァンニ・トラパットーニの下、豪華なメンバーを要しており、グレンケアの同胞であるヨン・ダール・トマソンらがいた。しかし、トラパットーニはグレンケアやトマソンを重用せず、ベンチに追いやった。結果、リーグ中位に落ち着いた責任を取る形でトラパットーニは解任され、これを機にドイツやデンマークメディアは彼らに移籍を薦めた。
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