スウェーデンによる神聖ローマ帝国侵攻の橋頭堡として
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「シュテッティン条約 (1630年)」の記事における「スウェーデンによる神聖ローマ帝国侵攻の橋頭堡として」の解説
グスタフ2世がポメラニアに上陸したとき、ドイツのプロテスタント諸侯は彼の介入について不信感を持った。1631年4月、プロテスタント諸侯はライプツィヒで行われた会議において自分で第3の戦線を開くと決定、1630年8月1日にすでにスウェーデンと同盟したマクデブルクを除いてスウェーデンと同盟しなかった。スウェーデンの戦略ではマクデブルクを「ドイツ全体の反乱」の起爆剤にしようとしたが、この戦略は初期には効果が上がらなかった。 1631年初、スウェーデン軍はブランデンブルク選帝侯領に進軍した。1631年1月23日、スウェーデンはブランデンブルク領でグライフェンハーゲン近くのベールヴァルデ(英語版)にてフランス王国と同盟を締結した。ブランデンブルク領のフランクフルト・アン・デア・オーデルとランツベルク・アン・デア・ヴァルテはそれぞれ4月15日と23日に占領された。その後、ブランデンブルクは5月14日、6月20日、9月10日にスウェーデンとの条約締結を余儀なくされた。これらの条約により、ブランデンブルク選帝侯ゲオルク・ヴィルヘルムはブランデンブルクの軍事の支配権をスウェーデンに渡すことを余儀なくされたが、同盟は拒否した。 スウェーデンはマクデブルクを支援することができず、1631年夏にはティリー伯ヨハン・セルクラエスの軍勢がマクデブルクを占領、略奪した(マクデブルクの戦い)。大火により市内に残った建物が焼け落ち、住民2万人が死亡するとプロテスタント諸侯は不信感を拭い去ってスウェーデン王を支持した。ティリー伯がザクセン選帝侯領を攻撃すると、ザクセン選帝侯は自軍をスウェーデン軍と合流させ、両軍は1631年のブライテンフェルトの戦いでティリー伯の軍勢を決定的に撃破した。帝国軍とカトリック連盟の連合軍が敗北したことで、スウェーデン軍がドイツ中部や南部まで追撃することができた。
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