ジョン・キャンベル (第2代アーガイル公爵)とは? わかりやすく解説

Weblio 辞書 > 辞書・百科事典 > 百科事典 > ジョン・キャンベル (第2代アーガイル公爵)の意味・解説 

ジョン・キャンベル (第2代アーガイル公爵)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/03/13 14:53 UTC 版)

ジョン・キャンベル
John Campbell
第2代アーガイル公
在位 1703年 - 1743年

出生 (1678-10-10) 1678年10月10日
死去 (1743-10-04) 1743年10月4日(64歳没)
埋葬 グレートブリテン王国ウェストミンスター寺院
配偶者 メアリー・ブラウン
  ジェーン・ウォーバートン
子女 キャロライン
エリザベス
アン
メアリー
家名 キャンベル家
父親 初代アーガイル公アーチボルド・キャンベル
母親 エリザベス・タルマッシュ
テンプレートを表示

第2代アーガイル公ジョン・キャンベル(John Campbell, 2nd Duke of Argyll, KG, PC, 1678年10月10日 - 1743年10月4日)は、スコットランドの貴族・軍人。初代アーガイル公アーチボルド・キャンベルとヘルミンガム男爵ライオネル・タルマッシュの娘エリザベスの長男でアーチボルド・キャンベルの兄。イギリスの軍人として活動、イギリス貴族に列せられた。

生涯

1689年に父が名誉革命の恩賞でイングランドウィリアム3世からアーガイル伯爵位と連隊指揮権を与えられた影響で、1694年に僅か16歳で歩兵連隊隊長となり短期間大同盟戦争に従軍、連隊解散後は1699年から1700年にかけてグランドツアーに出かけた。1701年に父がアーガイル公に叙爵、1703年に父が亡くなりアーガイル公位を継承し、1705年にグリニッジ伯・チャタム男爵にも叙爵されイングランド貴族に列せられた。

スコットランドとイングランドの合同交渉に参加して不穏な国内を説得して回り、1707年グレートブリテン王国成立に貢献する一方でスペイン継承戦争でイングランド軍に加わり、司令官のマールバラ公ジョン・チャーチルの下で1706年ラミイの戦いスペイン領ネーデルラント平定、1708年アウデナールデの戦い、翌1709年マルプラケの戦いに参戦してフランス軍と戦い、1710年にガーター勲章を受勲、1711年トーリー党の幹部で政府首班の第一大蔵卿ロバート・ハーレーヘンリー・シンジョンスペイン方面の司令官に任命された[1]

しかし、トーリー党政権は裏でフランスと単独和平交渉を行っていて、和睦のためにそれまで大陸で戦っていた遠征軍に交戦停止命令を通達していたため、手柄を挙げられないまま1712年にイングランドとフランスが和睦してイギリス軍の解散を迎えた上、トーリー党から弾劾されたことに危機感を抱きホイッグ党と結んで政府批判を展開、1714年7月にハーレーが失脚、アン女王が危篤になるとサマセット公チャールズ・シーモアと共に枢密院へ入場してシンジョンの大蔵卿就任を阻止(後任はシュルーズベリー公チャールズ・タルボット)、ジョージ1世ドイツからイギリスに到着して即位するまでイギリスの政治を任される委員の1人に選ばれ、トーリー党が没落、ホイッグ党が与党となったハノーヴァー朝の下で政治に携わった[2]

1715年、スコットランドでジャコバイトマー伯ジョン・アースキンに率いられて蜂起すると鎮圧に向かいシェリフミュアの戦いで勝利を飾り翌1716年に反乱を鎮圧した。1718年に王室家政長官、1719年にグリニッジ公に叙せられ、イギリスの首相となったロバート・ウォルポールに閣僚として協力していった。軍隊でも昇進を重ね兵站部総監、ロイヤル・ホースガーズ隊長、陸軍元帥となり、1741年ロンドンで設立された児童養護病院ファウンドリング・ホスピタルの監督を務め、1742年にイギリス軍最高司令官に任命された。翌1743年に64歳で死去、ウェストミンスター寺院へ埋葬された。息子が無かったためグリニッジ公位は消滅、弟のアーチボルドがアーガイル公位を継承した。

子女

1710年にジョン・ブラウンの娘メアリーと結婚したがすぐに離婚した。子供はいない。

1717年にトマス・ウォーバートンの娘ジェーンと再婚、4人の子を儲けた。

  1. キャロライン(1717年 - 1794年) - バクルー公フランシス・スコットの息子のダルキース伯フランシス・スコットと結婚、ヘンリー・スコットの母。
  2. エリザベス(1718年 - 1799年) - ジェイムズ・ステュアート=マッケンジーと結婚
  3. アン(1720年 - 1785年) - ストラフォード伯ウィリアム・ウェントワースと結婚
  4. メアリー(1727年 - 1811年) - コーク子爵エドワード・コークと結婚

脚注

  1. ^ 友清、P164 - P173、P226 - P232、P314 - P315。
  2. ^ キレーン、P154 - P157、友清、P348 - P353、P377、P384 - P394。

参考文献

  • 森護『英国王室史事典』P132。大修館書店、1994年。
  • リチャード・キレーン著、岩井淳・井藤早織訳『図説スコットランドの歴史』彩流社、2002年。
  • 友清理士『スペイン継承戦争 マールバラ公戦記とイギリス・ハノーヴァー朝誕生史』彩流社、2007年。

外部リンク

スコットランド王国議会英語版
先代
第2代ツィードデール侯爵
スコットランド首席高等弁務官
1705年 - 1706年
次代
第2代クイーンズベリー公爵
公職
先代
ケント公爵
王室家政長官
1718年 - 1725年
次代
ドーセット公爵
軍職
先代
初代アーガイル公爵
ローン卿歩兵連隊長
1694年 - 1697年
連隊解散
先代
初代アーガイル公爵
ホースガーズ第4中隊長
1703年 - 1715年
次代
第4代ダンドナルド伯爵
先代
チャールズ・チャーチル
ジョージ・オブ・デンマーク王子連隊長
1707年 - 1711年
次代
ジョン・セルウィン
先代
第3代ピーターバラ伯爵
王立近衛騎馬連隊長
1715年 - 1717年
次代
第3代ボルトン公爵
先代
初代ロンドンデリー伯爵
女王所有騎馬連隊長
1726年 - 1733年
次代
ウィリアム・エヴァンズ
先代
第3代ボルトン公爵
王立近衛騎馬連隊長
1733年 - 1740年
次代
シーモア卿
先代
ハートフォード伯爵
王立近衛騎馬連隊長
1741年 - 1742年
次代
ハートフォード伯爵
先代
初代ポートモア伯爵
在スコットランドイギリス陸軍最高司令官
1712年 - 1716年
次代
初代カーペンター男爵
先代
初代カドガン伯爵
兵站総監
1725年 - 1740年
次代
第2代モンタギュー公爵
先代
ジョージ・マッカートニー
ポーツマス総督
1730年 - 1737年
次代
第2代シャノン子爵
先代
第2代モンタギュー公爵
兵站総監
1741年 - 1742年
次代
第2代モンタギュー公爵
名誉職
先代
ハリファックス伯爵
サリー州統監
1715年 - 1716年
次代
オンズロー男爵
スコットランドの爵位
先代
アーチボルド・キャンベル
アーガイル公爵
1703年 - 1743年
次代
アーチボルド・キャンベル
イングランドの爵位
爵位創設 グリニッジ伯爵
1705年 - 1743年
廃絶
グレートブリテンの爵位
爵位創設 グリニッジ公爵
1719年 - 1743年
廃絶



英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「ジョン・キャンベル (第2代アーガイル公爵)」の関連用語

ジョン・キャンベル (第2代アーガイル公爵)のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



ジョン・キャンベル (第2代アーガイル公爵)のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
All text is available under the terms of the GNU Free Documentation License.
この記事は、ウィキペディアのジョン・キャンベル (第2代アーガイル公爵) (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。 Weblio辞書に掲載されているウィキペディアの記事も、全てGNU Free Documentation Licenseの元に提供されております。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS