ジェームズ・バトラー (初代オーモンド公)とは? わかりやすく解説

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ジェームズ・バトラー (初代オーモンド公)

(ジェームズ・バトラー_(初代オーモンド公爵) から転送)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/09/13 00:49 UTC 版)

初代オーモンド公ジェームズ・バトラー

初代オーモンド公ジェームズ・バトラー(James Butler, 1st Duke of Ormonde, KG, PC, 1610年10月19日 - 1688年7月21日)は、イングランドアングロアイリッシュ系貴族、軍人。

生涯

1610年、第11代オーモンド伯ウォルター・バトラーの長男のサーレス子爵トマス・バトラーとエリザベス夫妻の長男として生まれた。カトリックの家柄だったが、1619年に父が急死して後見人となったイングランド・スコットランドジェームズ1世に引き取られプロテスタントに育てられた。ジェームズ1世の子チャールズ1世にも従い1632年に死去した祖父の爵位を継いで第12代オーモンド伯となり、翌1633年にアイルランドへ戻り、チャールズ1世の側近でアイルランド総督として赴任していたストラフォード伯爵トマス・ウェントワースに軍人として従い、1641年に発生したアイルランド同盟戦争の鎮圧にあたった[1][2]1642年侯爵に陞爵。

清教徒革命イングランド内戦)の最中の1643年にチャールズ1世からアイルランド総督に任命、反乱勢力が結成したアイルランド・カトリック同盟との交渉役に任命され休戦、1644年から和睦に向けた同盟との対話を開始したが、和睦内容に折り合いがつかず交渉が長引き、1646年3月28日にようやく和睦条約妥結に至った。しかしその後イングランド内戦が王党派の敗北となりチャールズ1世がスコットランドで投降した上、交渉から遠ざけられたカトリック聖職者と1645年11月からアイルランドに赴任したローマ教皇インノケンティウス10世の特使ジョヴァンニ・バッティスタ・リヌチーニ英語版が結びつき条約に反対した。チャールズ1世が後から派遣したグラモーガン伯エドワード・サマセットもオーモンド侯を出し抜き、カトリック寛容と引き換えに軍事援助の秘密条約を結ぼうと画策、失敗しオーモンド侯に逮捕される事件が発生、チャールズ1世は関与を否定したが同盟から不信を抱かれ、和睦決裂の危険が高まった。そしてリヌチーニが同盟内の反対派をけしかけオーウェン・ロー・オニールら軍人・聖職者を扇動、賛成派を弾圧して同盟を分裂させ条約も破棄したため、身の置き場所を失ったオーモンド侯は1647年7月にイングランドへ戻った[1][3]

1649年に和睦反対派が内部分裂で自滅すると改めて同盟と接触、1月17日に和睦条約が結び直された。30日にチャールズ1世が議会派に処刑されると再びアイルランドへ渡り王党派の軍を結集して議会派との戦いに向かったが、8月2日ラスマインズの戦いでマイケル・ジョーンズ率いる議会派に敗北し脱走兵が続出して弱体化してしまい、15日オリバー・クロムウェル率いる本隊がアイルランドに到着、9月11日ドロヘダ攻城戦アーサー・アーストン率いる別部隊を壊滅させられた。以後のアイルランド侵略も無力でなすすべも無く見守るだけに終始、1650年に観念してフランスへ亡命した。大陸で亡命中のチャールズ王太子(後のチャールズ2世)ら王党派と合流してからは外交面で活動、1656年スペインと亡命政権の同盟を締結、1659年にフランスとの交渉も行ったが、交渉相手のフランス宰相マザランに拒否され、スペインとの同盟も復帰の役に立たなかった[1][4]

1660年王政復古で王太子と共にイングランドへ帰国、翌1661年にチャールズ2世から公爵位を授けられた(この爵位はアイルランド貴族としての称号だが、1682年イングランド貴族としても認められた)。当初はクラレンドン伯爵エドワード・ハイドサウサンプトン伯爵トマス・リズリーらと共に枢密院に加わっていたが、1662年にはアイルランド総督に復帰、戦乱で減少した人口の回復と宗教寛容を主とした穏健な政治に取り組み、ダブリンの街並み改造やフランスからのユグノー(プロテスタント)亡命者受け入れを奨励した。1685年にイングランドへ召還され後任の総督はクラレンドン伯爵ヘンリー・ハイド、軍司令官はティアコネル伯リチャード・タルボットが任命されたが、実権を握ったティアコネル伯はオーモンド公の宗教寛容を一変させてカトリック勢力増徴を推進していった。

同年にチャールズ2世が亡くなり弟のジェームズ2世が即位するとカトリック寛容政策に反対したが、1688年7月21日に77歳で死去。息子のトマスに先立たれていたため孫のジェームズが第2代オーモンド公となったが、11月に起こった名誉革命でイングランドから追放されたジェームズ2世は復帰を目論みティアコネル伯と共にアイルランドへ移り、アイルランドは再び戦乱に巻き込まれていった(ウィリアマイト戦争[1][5]

子女

妻エリザベス・プレストンとの間に7人の子を儲けた。

  1. トマス(1632年)
  2. トマス(1634年 - 1680年) - オソリー伯、第2代オーモンド公ジェームズ・バトラーと第3代オーモンド公チャールズ・バトラー兄弟の父
  3. ジェームズ(1636年 - 1645年)
  4. リチャード(1639年 - 1686年) - アラン伯
  5. エリザベス(1640年 - 1665年) - チェスターフィールド伯フィリップ・スタンホープと結婚
  6. ジョン(1643年 - 1677年) - ゴーラン伯
  7. メアリー(1646年 - 1710年) - デヴォンシャー公ウィリアム・キャヴェンディッシュと結婚

脚注

  1. ^ a b c d 松村、P544。
  2. ^ 山本、P137 - P138、ウェッジウッド、P82。
  3. ^ フレシェ、P68 - P69、山本、P138 - P144、ウェッジウッド、P259、P324 - P325、P541 - P546、P555 - P559、P617 - P621。
  4. ^ フレシェ、P69、山本、P144、ヒル、P144 - P145、P151、P154 - P155、『イギリス革命史(上)』、P12、P30 - P31、P38 - P40。
  5. ^ フレシェ、P69 - P74、塚田、P205、P207、『イギリス革命史(上)』、P46、『イギリス革命史(下)』、P20 - P21、P76 - P77。

参考文献

関連項目

公職
先代
レスター伯
アイルランド総督
1643年 - 1646年
次代
リール卿
先代
リール卿
アイルランド総督
1648年 - 1649年
次代
オリバー・クロムウェル
空位
最後の在位者
リッチモンド公
王室家政長官
1660年 - 1688年
次代
デヴォンシャー伯
先代
アルベマール公
アイルランド総督
1662年 - 1668年
次代
オソリー伯
先代
エセックス伯
アイルランド総督
1677年 - 1685年
次代
総督代理制へ
名誉職
先代
サマセット公
サマセット統監
1660年 - 1672年
次代
サマセット公
学職
先代
ウィリアム・ロード
ダブリン大学学長英語版
1645年 - 1653年
次代
ヘンリー・クロムウェル
先代
ヘンリー・クロムウェル
ダブリン大学学長
1660年 - 1688年
次代
オーモンド公
先代
ギルバート・シェルダン
オックスフォード大学学長
1669年 - 1688年
次代
オーモンド公
イングランドの爵位
爵位創設 オーモンド公
1682年 - 1688年
次代
ジェームズ・バトラー
爵位創設 ブレックノック伯
1660年 - 1688年
アイルランドの爵位
爵位創設 オーモンド公
1661年 - 1688年
次代
ジェームズ・バトラー
爵位創設 オーモンド侯
1642年 - 1688年
先代
ウォルター・バトラー
オーモンド伯
1634年 - 1688年
オソリー伯
(繰上勅書により継承)

1634年 - 1662年
次代
トマス・バトラー



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