シーメンス事件弾劾演説
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/01/14 09:16 UTC 版)
1914年(大正3年)第1次山本内閣がシーメンス事件が起こすと、これに酷く憤慨し、3月1日山本権兵衛に辞職を強く求め、壇上で「閣下の面貌は監獄へ行けば類似のものは沢山あると言って居ります」「今日小学校の児童なりと雖も、閣下を土芥糞汁の如く悪口を致して居る」「不徳義千万なる卑劣漢」などと強く非難、議長徳川家達に議院法92条違反との注意を受け、議員を辞職し、鎌倉郡腰越に退隠した。 鎌倉安養院の祇園山を借りて別荘とし、山一面に人形を配置し、村田山、人形山とも呼ばれた。 1925年(大正14年)、腎炎のため死去。
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