シンガポール脱出
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/07/08 12:53 UTC 版)
1945年8月15日の玉音放送の数日前に日本のポツダム宣言受諾を察知した茨木少佐らは、スマトラ治安工作を実行していたことからオランダからの戦犯訴追は免れないと考え、連合軍がシンガポールに進駐するとの情報があった同月20日以前にシンガポールを脱出することにした。 茨木少佐は機関の各拠点に現地住民の職員・工員の全員解雇を指示し、同月16日にジョホール・バルの新本部やインスティテューション・ヒルの総軍班で、機関員や特操出身者に日本の降伏を伝え、「このままシンガポールにいると、特務機関員は全員連合軍に捕まって処刑される。聖戦の目的を完遂するため、スマトラ島・アチェ州に渡り、アチェのインドネシア人青年とともにインドネシアの独立を目指して連合軍に徹底抗戦する。」とスマトラへの同行を呼びかけた。 特操出身者はほぼ全数の約120名がスマトラへ同行することになり、同月16-18日にかけてシンガポールの各所から武器・弾薬、食糧、宣撫物資(衣料品など)、海峡ドル、金塊、阿片等の物資を調達して船に積み込み、同月19,20日、ジョホール州の各地に展開していた機関員のシンガポール帰還を待って、機関員約160名が2隻の船に分乗してシンガポールを脱出した。
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