シュレージエンを巡る係争
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/08/13 15:43 UTC 版)
「オーストリア継承戦争」の記事における「シュレージエンを巡る係争」の解説
「シロンスク公国群」も参照 シュレージエン(シレジア)を巡っては、そもそもイェーゲンドルフ(クルノフ)侯領を、1523年にホーエンツォレルン家の傍流であるブランデンブルク=アンスバッハ辺境伯ゲオルクが購入した。さらに、ラティボル公国およびオッペルン公国も、協定によりホーエンツォレルン家領となる予定だったが、三十年戦争時に神聖ローマ皇帝フェルディナント2世に収公された。また、リーグニッツ(レグニツァ)、ブリーク(ブジェク)、ヴォラウの3公領も、フェルディナント1世の例に反していることを理由に、1675年に収公された。1696年に、ブランデンブルク選帝侯フリードリヒ3世(後、プロイセン初代国王)は、これらの地への権利を復活させた。 18世紀に入り、ポーランド継承戦争後、ハプスブルク帝国とザクセンの弱体化と、フランスやロシア帝国の進出により、ユーリヒ=ベルクはヨーロッパの勢力均衡上の要地となった。 1738年2月、カール6世はフランスの圧力により、ユーリヒ=ベルクの相続権をプロイセンから奪った。プロイセンはこの代償として、3公領(リーグニッツ、ブリーク、ヴォラウ)を要求した。1740年に即位する第3代国王フリードリヒ2世(大王)は、東方の西プロイセン(現ポーランド領)、西方のユーリヒ公国とベルク公国(ユーリヒ=ベルク公国)の獲得を指向するようになった。
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