ステファニア・ヴォイトヴィチとは? わかりやすく解説

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ステファニア・ヴォイトヴィチ

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/12/25 05:06 UTC 版)

ステファニア・ヴォイトヴィチポーランド語: Stefania Woytowicz1922年10月8日 - 2005年8月31日)は、ポーランドを代表する最も優れた声楽家ソプラノ)のひとりである[1]

生涯

ヴォイトヴィチは、1922年に現在はウクライナ領となっているポジーリャカームヤネツィ=ポジーリシクィイ(ポーランド語ではカミェニェツ=ポドルスキ)に近い、オルィーニンウクライナ語版で生まれた。作曲家ボレスワフ・ヴォイトヴィチポーランド語版は、20歳以上も歳の離れた兄である。

クラクフの音楽学校に学び、スタニスワヴァ・ザヴァツカポーランド語版英語版に師事した。1950年ポズナンバッハ・コンクールで第1位となった。1951年ライプツィヒのバッハ・コンクール、さらに1954年にはプラハの春国際音楽コンクールでも第1位となり、本格的なキャリアを歩み始めた[1]。ヴォイトヴィチは、欧州諸国のみならず、アメリカ合衆国オーストラリアニュージーランド極東でも公演し、欧州の主だった音楽祭などにも参加した。彼女がレパートリーとした歌曲には、独唱重唱カンタータオラトリオなどが含まれ、もっぱらコンサート形式で公演を行ったが、オペラへの出演は拒んだ。

1980年代には、ワルシャワの Duszpasterstwie Środowisk Twórczych(団体名:「創造的環境の聖職者」の意)に関わり、音楽を通した慈善活動に従事した。1985年には教皇ヨハネ・パウロ2世のために、イタリアカステル・ガンドルフォでコンサートを行った[1]

ヴォイトヴィチは、ワルシャワで開催される現代音楽祭「ワルシャワの秋」には何度も参加し、カロル・シマノフスキクシシュトフ・ペンデレツキタデウシュ・バイルトヘンリク・グレツキボレスワフ・シャベルスキクシシュトフ・メイエルエドヴァルト・ボグスワフスキポーランド語版らの作品を歌った。彼女はまた、ラジオやテレビへの出演、レコードの録音も多数行なっていた。ヴォイトヴィチは、グレツキの交響曲第3番「悲しみの歌の交響曲」を最初に歌い、3つのレコード会社から、それぞれ別のオーケストラ、指揮者と共演してレコードを出した。1977年から1992年まで、ワルシャワ音楽協会の会長を務めた。

2005年8月31日、ワルシャワで死去し、当地で埋葬された[1]

出典・脚注

  1. ^ a b c d Adam Czopek (2005年9月). “Odeszła Stefania Woytowicz”. Wiadomości Archidiecezji Warszawskiej (Warszawa: Bonum): pp. 1196-1197. ISSN 0209-3804 



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