シャドウ後
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/23 02:11 UTC 版)
「ジャン=ピエール・ジャリエ」の記事における「シャドウ後」の解説
1977年・1978年も、良いとは言い難いマシンで時折好走を見せるも、結果には結びつかないケースが続いていた。そんな中1978年の終盤2戦には、事故死したロニー・ピーターソンの代役として、この年圧倒的な強さを見せていたロータスから参戦。第15戦アメリカ東GPではFL、最終戦カナダGPではPPを獲得し、才能の片鱗を再びうかがわせた。特にカナダGPではスタートから終始トップを走行したが、残り20周余りでトラブルによりリタイヤに終わった。 1979年・1980年は低迷期のティレルから参戦するも、1979年は3位表彰台2回を含め入賞6回。1980年は入賞3回と、低迷期なりには実績を残した。また1981年は後半よりオゼッラで参戦、下位チーム故チームメイトや前任が予選落ちを繰り返す中、ジャリエは全戦で予選を通過。1982年も予選落ちは2度のみだった。しかし結果は出せず、出走が14台のみだった第4戦サンマリノGPでの4位が、オゼッラでの唯一の入賞となった。 1983年は1981年序盤にも在籍したリジェから参戦するが、低迷期で入賞は記録できなかった。次第に速さの陰りも囁かれるようになり、この年をもってF1からは去っていった。
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