ケントの王権
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2018/12/30 05:54 UTC 版)
「エゼルベルト (ケント王)」の記事における「ケントの王権」の解説
後世のケントの歴史において王国が共同統治されていた証拠があり、通常代表する国王がいたものの、ケント王国は東西に分かれていた。早期の時点でもそうであったかの根拠は乏しいが、早期の勅令で現在では捏造されたものとされているが、そこにはエゼルベルトが息子エアドバルドとともに王国を共同統治をしていた節が見える。エゼルベルトが東ケントの、エアドバルドが西ケントの統治をしていた可能性がある。また東ケント王は伝統的にケント王国全体の統治を担う人物がなっていた。いずれにせよ、エゼルベルトがケント王国の統治を担っていた事には変わりがない。 このような国の分割統治は6世紀から始まったものらしい。もともと東ケントが西ケントを征服して以来、東西の別々の制度が温存され、東ケントの宗主に対する下位王国としての西ケントという図式が成り立っていたらしい。これはアングロサクソン諸国の特徴として見られる傾向であり、力の大きな王国が小さな近隣諸国をこのように支配下にしていた。ケント王国の珍しい特徴として、王の息子のみが王位を主張できたらしい。もっとも、この事が王位継承の際の政治闘争を排除できたわけではなかった。 東西両ケントの首都は西ケントはロチェスター(Rochester)、東ケントはカンタベリーであった。ベーダはエゼルベルトの王宮がカンタベリーにあったとは書いていないが、カンタベリーをエゼルベルトの『メトロポリス』と記している事から、彼の玉座がここにあった事は間違いがない。
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