クリストファー・ガズデンとの決闘 1778年
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「ロバート・ハウ」の記事における「クリストファー・ガズデンとの決闘 1778年」の解説
地元の政界と軍隊の指導者との諍いだけが困難なものではなかった。1778年8月30日、サウスカロライナのクリストファー・ガズデンがハウの指揮下にあった1777年に辞任したことから始まったと考えられる攻撃について、拳銃で決闘することになった。この議論は、ハウが巻き込まれた多くのものと同様、大陸軍と、植民地政府がその士官や兵士を支配下に置いておきたいという願望との間の紛争が中心になっていた。ガズデンは、ハウの指揮官としての知性と能力を攻撃し、サウスカロライナの大陸軍に命令を発する権限を法的に問題とした手紙を書き回覧したことで、攻撃されたと考えたことに反応していた。ハウは1778年8月17日にガズデンを攻撃し、賠償を要求していた。 この決闘のとき、サウスカロライナ知事チャールズ・ピンクニーの父で同名のチャールズ・ピンクニー大佐がハウの介添えになり、バーナード・エリオットがガズデンの介添えになった。ハウが先ず初めに8歩の距離で発砲してしくじったが、銃弾はガズデンの耳を掠った。次にガズデンは意図的に自分の左肩の上に向けて発砲し、ハウにもう一度発砲するよう要求し、これをハウが拒否した。その結果として双方が詫びを入れて分かれた。この事件は個人的なことでは終わらず、「サウスカロライナ・アンド・アメリカン・ガゼット」紙が1788年9月3日に決闘の詳細を記事にした。同月、イギリス軍のジョン・アンドレ少佐がヤンキードゥードゥルの調子に合わせて決闘の様子を18連の風刺詩にして出版した。アンドレは後にベネディクト・アーノルドの寝返りを仲介することになった。
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