クラウンポイントへの退却
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/10/01 18:42 UTC 版)
「カナダ侵攻作戦」の記事における「クラウンポイントへの退却」の解説
6月14日の早朝、カールトンはついに川を遡上してソレルに進軍した。その日遅く到着した時には、大陸軍がその朝にソレルを放棄してシャンブリーとセントジョンズに向けてリシュリュー川を上りつつあることが分かった。ケベックからの後退の時とは異なり、大陸軍はいくらか秩序だった後退を行っていたが、カールトン艦隊の到着によって本隊を離れ、アーノルドの部隊と合流するためにモントリオールに向かった部隊もあった。カールトンはバーゴインに4,000名の部隊を率いてリシュリュー川を上らせ大陸軍の後を追わせる一方、自分はモントリオールに向かって帆走を続けた。 モントリオールではアーノルドが下流で起こっている事態を知らず、フォスターとの交渉を終えたばかりだった。5月15日にサリバン将軍からの報せを受けるために下流のソレルに送った伝令がカールトンの艦隊を目撃し、岸に逃れて盗んだ馬でモントリオールまで戻ってその報せを伝えた。アーノルドとモントリオール周辺にいた守備隊は伝令の報を受けてから4時間の内に市を放棄し(モントリオール市を焼き落とそうとはしなかった)、地元の民兵隊の手に委ねた。カールトンの艦隊は6月17日にモントリオール市に到着した。 アーノルドの部隊は17日にセントジョンズ近くで本隊に追いついたが、本隊であるサリバンの軍隊は戦える状態ではなく、簡単な作戦会議によってクラウンポイントまで退却することが決まった。この軍隊はバーゴインの前衛部隊が到着する文字通りまさにその瞬間にセントジョンズを離れた。 大陸軍の残党は7月初旬にクラウンポイントに到着した。この作戦の大半を経験した医者であるアイザック・センターが「おそらくはどこの国の年譜にも見出させないような特異で比べようも無い挫折と苦しみの不均一な連鎖」と表現した作戦の終わりだった。ケベックでの敗北は決定的となったが、イギリス軍はまだ動いていたので、作戦は完全には終わっていなかった。
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