クライザ族の虐殺について
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/22 15:02 UTC 版)
「ムハンマドへの批判」の記事における「クライザ族の虐殺について」の解説
627年5月、ムハンマド率いるイスラム教軍はムハンマドの暗殺やイスラームへ改宗したメディナのアラブ人の謀殺を行うなど、対立が続いていたユダヤ教徒のナディール族と戦闘になり、その集落を包囲陥落し彼らを追放した。627年3月、ムハンマドはハンダクの戦いでメッカ軍の総攻撃を撃退し勝利した。その後ハンダクの戦いで敵対的中立を保っていたユダヤ教徒のクライザ族を討伐するためサアド・ブン・ムアーズ・アル=アウシーに軍の全権を委ねて派遣した。624年5月1日に、15日間の包囲攻撃のすえクライザ族は全面降伏したが、サアドは成人男性全員を処刑し、婦女子は捕虜として全員奴隷身分(つまり、妾)に下し、その財産は全て没収してムスリムへ分配するという苛烈・残虐な処断を行った(クライザ族虐殺事件)。この時虐殺された戦士層の人数は1000人にのぼったと伝えられる。ムハンマドは「まさしく汝は神(アッラー)と神の使徒(ムハンマド自身)の意に適う判決を行った」とこのきわめて残虐な非人道的行為を全面的に支持したという。続くハイバル遠征でナディール族が全面降伏した結果、ファダク、ワーディー・アル=クラー、タイマーの各ユダヤ教徒系のアラブ諸部族は相次いでムハンマドに服従する事になった。このことに関して、非ムスリムからは少なからずムハンマドへの批判が存在している。
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