ガリ転進
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/31 06:03 UTC 版)
「フィンシュハーフェンの戦い」の記事における「ガリ転進」の解説
キアリにはフィンシュハーフェン方面から撤退してきた第20師団などの残存兵力と、ラエ方面からサラワケット越えで撤退してきた第51師団の残存兵力など計1万3,000名が集結した。第20師団の兵力は、フィンシュハーフェンに向かった人員12,526名が、キアリで再集結したときには55パーセントにあたる6,949名に減少していた。 ところが1944年1月2日、キアリとマダンのほぼ中間にあるサイドル(グンビ岬)に、アメリカ軍第32師団第126連隊戦闘団約7,000名が上陸し、またも日本軍は退路を絶たれてしまった。シオ・ガリ地区に集結していた日本軍は海岸を迂回し、フィニステル山系の中腹を横断してマダンへ撤退した(ガリ転進)。第51師団将兵にとってはサラワケット越えに続く2度目の山越えであった。将兵は険しい山道と飢えに苦しみ、山脈の中腹では山の上に降ったスコールが鉄砲水となって襲い掛かってくることもあった。1か月後、マダンに到着できた人員は9,000名だった。 連合軍はオーストラリア軍第20旅団を主力として追撃し、1月15日にシオを占領した。これでフォン半島での主要な戦闘は終わった。オーストラリア軍第9師団は、フィンシュハーフェン上陸以来の戦闘で戦死283含む1,028名が負傷した。
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