ガリア赴任(355年 - 360年)
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「フラウィウス・クラウディウス・ユリアヌス」の記事における「ガリア赴任(355年 - 360年)」の解説
355年末、ユリアヌスはコンスタンティウスとともにガリアに向かっていた。配下に置かれる予定の軍は、すでにガリアにて待機していた。この道中、フランク族によってコロニア・アグリッピナ(現ケルン)が陥落したとの報告を受ける。ここからユリアヌス自身の指揮による戦闘が始まる。 翌年6月、ウィエンナ(現ヴィエンヌ)での越冬を終えたユリアヌスはまず、攻撃に晒されていたアウグストドゥヌム(現オータン)を救援し、そこからアウテシオドゥルム(現オセール)、アウグストボナ(現トロワ)で敵を破りつつ、ドゥロコルトルム(現ランス)まで北上し、その地の駐屯軍と合流した。戦力を整えたのちは東進し、ディウォドゥルム(現メス)を経由して、ライン川中流の西岸まで進出した。 これと平行してコンスタンティウスはライン川上流に進軍し、南北からの挟撃が行われた。まもなく、ライン川上流をアラマンニ族から奪回する目的は達成された。アラマンニ族との戦いをコンスタンティウスに引き継いだユリアヌスは北上し、コロニア・アグリッピナをフランク族の手から取り戻した。 コンスタンティウスは357年にはガリアを離れたが、ユリアヌスの成功は続いた。アルゲントラトゥムの戦いにて、3倍近いアラマンニ族を相手に勝利を収め、その後はライン川を渡ってアラマンニ族の土地に攻撃を加えた。358年には下流域にも断固とした軍事行動をとった。さらに上流域でも別働隊がライン川を越えて征服したため、ローマ帝国の支配領域を、リメス・ゲルマニクスとライン・ドナウ両大河の源流の扇形の区域(アグリ・デクマテス、 (Agri Decumates) )にまで戻すことに成功した。こうしてガリアの安定は取り戻された。それを示すように、359年になるとユリアヌスの軍事行動も少なくなる。
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