ガリア赴任とは? わかりやすく解説

ガリア赴任(355年 - 360年)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/13 08:14 UTC 版)

フラウィウス・クラウディウス・ユリアヌス」の記事における「ガリア赴任(355年 - 360年)」の解説

355年末、ユリアヌスコンスタンティウスとともにガリア向かっていた。配下置かれる予定の軍は、すでにガリアにて待機していた。この道中、フランク族によってコロニア・アグリッピナ(現ケルン)が陥落したとの報告を受ける。ここからユリアヌス自身指揮による戦闘が始まる。 翌年6月、ウィエンナ(現ヴィエンヌ)での越冬終えたユリアヌスはまず、攻撃晒されていたアウグストドゥヌム(現オータン)を救援し、そこからアウテシオドゥルム(現オセール)、アウグストボナ(現トロワ)で敵を破りつつ、ドゥロコルトルム(現ランス)まで北上し、その地の駐屯軍合流した戦力整えたのちは東進し、ディウォドゥルム(現メス)を経由してライン川中流西岸まで進出した。 これと平行してコンスタンティウスライン川上流進軍し南北からの挟撃が行われた。まもなく、ライン川上流アラマンニ族から奪回する目的達成された。アラマンニ族との戦いコンスタンティウス引き継いだユリアヌス北上し、コロニア・アグリッピナをフランク族の手から取り戻したコンスタンティウス357年にはガリア離れたが、ユリアヌス成功続いたアルゲントラトゥムの戦いにて、3倍近いアラマンニ族相手勝利を収めその後ライン川渡ってアラマンニ族土地攻撃加えた358年には下流域にも断固とした軍事行動をとった。さらに上流域でも別働隊ライン川越えて征服したため、ローマ帝国の支配領域を、リメス・ゲルマニクスとライン・ドナウ両大河源流扇形区域(アグリ・デクマテス、 (Agri Decumates) )にまで戻すことに成功した。こうしてガリア安定取り戻された。それを示すように、359年になるとユリアヌス軍事行動少なくなる

※この「ガリア赴任(355年 - 360年)」の解説は、「フラウィウス・クラウディウス・ユリアヌス」の解説の一部です。
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