オランダ・日本
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/01/03 16:20 UTC 版)
1592年にはオランダがアユタヤに使節を送り通商許可を取得し、国内の米の輸出に関して大きな影響力を得ることになった。 詳細は「緬泰戦争(英語版)」を参照 目立って日本人勢力が大きくなるのは、16世紀後半から17世紀初頭にかけてである。特に、日本で徳川幕府による天下統一が成し遂げられ、戦が無くなったため、傭兵の形で雇われていた浪人の多くが失業、海外に働き口を求めたのが原因と考えられている。一時期中国との貿易額をしのぐ勢力を保持していた。 1629年にはプラーサートーン(プラーサートーン王家)が王位を奪っている。ところが1630年に山田長政はムアンナコーンシータンマラートへ左遷され、イスラム勢力のパタニ軍と交戦した後死亡している。1630年に、日本の勢力拡大を危ぶんだプラーサートトーン王によりアユタヤ日本人町は焼き討ちにあい没落し、1635年には日本からの朱印船交易が廃止され衰退した。
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