エリートの墓地
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/14 08:03 UTC 版)
特に、1938年3月のいわゆる右翼トロツキスト陰謀事件に関連し有罪となった者も含め、2度のモスクワ公開裁判で有罪となったボリシェヴィキの指導者層がコムナルカに埋葬された。(1937年1月の第二回公開裁判の被告人のうち、ベロボロドフやブーブノフと言った出廷しなかった者もコムナルカに埋葬された。) ヤゴーダについてはすでに言及がなされている。1938年3月の21人裁判の他の被告については下記の通りである。ブハーリン、ルィコフ、クレスティンスキー、ローゼンゴリツ、ウラジーミル・イヴァノフ、ミハイル・チェルノフ、イサアク・ゼレンスキー、ウズベク・ソビエトの指導者アクマリ・イクラモフ、ファイズッラ・ホジャエフ、ヴァシーリー・シャランゴヴィチ、プロコピー・ズバレフ、NKVD将校のパーヴェル・ブラーノフ、クレムリンの医師レフ・レーヴィン、イグナティー・カザコフ、ヴェニアミン・マクシモフ=ディコフスキー、マクシム・ゴーリキーの秘書ピョートル・クリュチコフ。(リストに名前が上がっていないラコフスキー、ベッソノフおよびプレトニョフは1938年に重い禁固刑を言い渡された。彼らは後の1941年、戦争が開始され数ヶ月以内に即座に処刑された。) モンゴル人革命家(バドラフ、ドグソム、ロソル、ルヴサンシャラ、シジェー)、作家(ピリニャーク、キルション、ヤシエニスキ)、赤軍およびNKVDの将校(アグラーノフ、ベルマン兄弟、ベルジン、コーガン、パウケル)のうち、2人は中欧出身であった。クン・ベーラは1919年に成立した短命政権であったハンガリー評議会共和国の指導者であり、元カトリック司祭のテオドーレ・マーリーは海外でソビエト連邦の工作員を募集し、1930年代中盤にはケンブリッジ・ファイヴの責任者を務めていた。
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