エマ・スミス
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/28 02:42 UTC 版)
「ホワイトチャペル殺人事件」の記事における「エマ・スミス」の解説
1888年4月3日火曜日は法定休日であるイースタ・マンデーの翌日だった。この日の早朝、売春婦のエマ・エリザベス・スミスはホワイトチャペルにあるオズボーン・ストリート(英語版)とブリック・レーン(英語版)の交差点で襲撃され、略奪を受けた。負傷したものの生き延び、スピタルフィールズのジョージ・ストリート18番地にある自宅のロッジングハウスに何とか歩いて戻ることができた。スミスは管理人代理のメアリー・ラッセル(英: Mary Russell)に、2人か3人の男に襲われた、そのうち1人は若かったと伝えた。ラッセル夫人はスミスをロンドン病院(英語版)へ連れていった。診察の結果、膣に鈍器を挿入されており、腹膜が破裂していることが判明した。スミスは腹膜炎を発症し、1888年4月4日午前9時に死亡した。4月7日にイースト・ミドルセックス担当の検視官のウィン・エドウィン・バクスター(英語版)(英: Wynne Edwin Baxter)が検死を行った。なお、バクスターはホワイトチャペル殺人事件のほかの被害者のうちの6名の検死も行った。ロンドン警視庁の警部補でH地区、つまりはホワイトチャペルを担当するエドマンド・リード(英語版)(英: Edmund Reid)が捜査にあたったが、犯人を逮捕できなかった。H地区に配属されていたウォルター・デュー(英語版)(英: Walter Dew)刑事はのちに、スミスは切り裂きジャックの最初の被害者と考えていると記した。しかし、同僚は犯罪集団の犯行と疑っていた。スミスは男の集団に襲われたと主張したが、どのような人物が犯人かを説明しなかった。説明を拒んだのかもしれないし、できなかったのかもしれない。売春はしばしばギャングが管理していた。スミスはギャングに逆らった制裁を受けたか、脅迫の一環で襲われた可能性がある。スミスは報復を恐れて襲撃者の正体を説明できなかった可能性もある。スミスの殺害はその後に発生した殺人事件に関係がある可能性は低いと考えられている。
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