エスラー・デニングとは? わかりやすく解説

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エスラー・デニング

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/11/02 07:32 UTC 版)

サー・エスラー・デニング
Sir Esler Dening
駐日大使
任期
1951年 – 1957年
君主 エリザベス2世
首相 ウィンストン・チャーチル
アンソニー・イーデン
前任者 サー・アルバニー・ガスコイン英語版
後任者 サー・ダニエル・ラッセルズ英語版
個人情報
生誕 (1897-04-21) 1897年4月21日
死没 1977年1月29日(1977-01-29)(79歳没)
国籍 イギリス

サーエスラー・メイバーリー・デニング: Sir Esler Maberley Dening GCMG OBE、1897年4月21日 – 1977年1月29日)は、イギリス外交官。1951年から1957年にかけて駐日大使を務めた。父は、日本で宣教師を務めたウォルター・デニング

生涯

ウォルター・デニングの息子に生まれ、日本で生まれ育った[1]。1920年にイギリス領事部門の通訳生に採用され、以降は京城大連大阪神戸ハルビンといった各領事館職員として勤務した[2]

第二次世界大戦中、連合国軍東南アジア方面総司令部英語版で勤務し、1943年9月にルイス・マウントバッテン総司令官の政治顧問に就任した[3]

駐日大使として

1951年、占領期間中の日本へ赴任することとなり、イギリス渉外事務所の政治代表に就いた[4]

1952年6月、サンフランシスコ講和条約発効により、デニングは駐日全権大使に昇格した[5]

昇格早々の6月末に、兵庫県神戸市イギリス海軍の水兵2名がタクシー強盗を働く事件が発生した(神戸イギリス水兵強盗事件[6]。イギリス側は「日本に裁判権なし」として水兵の引き渡しを求め、デニングも本国の方針にしたがって、地裁判決の翌日に外務省へ抗議を行った[注釈 1][9]

GATT加入問題をめぐって日英関係が緊迫

新宿御苑での園遊会に参加するデニング(中央正面を向いている人物、1952年)

デニングの大使在任中は、日本に対する戦時中の負の記憶が未だ払拭されていなかったうえ、経済復興をつづける日本がイギリス工業製品と貿易摩擦を生じていたため、イギリス世論の風当たりは強かった[10]

同時期に日本は、自由貿易の国際的枠組み(GATT協定)へ加入を目指していたが、貿易摩擦をかかえるイギリスがこれに待ったをかけた。イギリスを中心にフランスやオーストラリアが日本加入に異議を唱え、日本はGATTへオブザーバー参加を余儀なくされた[11]

デニングはこうしたイギリス本国の態度を批判し、「技術を改良し、生産性を向上させ、市場の流通をよくすることによってのみ、日本がしかける競争に対抗できるのであって、ある種の産業を日本の優勢から保護するために、日本の貿易に対して、関税を引き上げたり、制限を加えたりすることによって対抗できるものではない」と本国政府に訴えた[12]

しかし、1954年に入ると、イギリスは日本加入に賛成しつつ、

1.二国間協定(緊急の場合は、日英間のGATT関係を停止できる内容)を個別に結ぶ
2.協定の第35条[注釈 2]を援用する

という二つの案を検討しはじめ、同年10月、1.の二国間協定案を日本政府に打診してきた。日本側は、「二国間協定を許せば、他国も同様に協定を求めてくる」と予想し、11月30日に協定案は受諾できないと回答した[11]

これに対して翌年の4月1日、デニングは「二国間協定案は拒否されたままとなっているところ、英国政府は35条の援用を近く議会で表明せざるを得ない。ただし他の締約国に対して日本の加入を邪魔することはない」と政府の意向を日本側に伝えた[11]

9日、イギリスは日本に対しGATT35条を援用し、日本とGATT上の関係を締結しない声明をだした[注釈 3][13][11]

こうした経緯を経て、日本は1955年3月にGATT加入を果たしたが、GATT35条による日本製品への実質的な輸入差別は続いた[11]

1957年に大使を退任した。後任には、サー・ダニエル・ラッセルズ英語版が就任した。

1977年に死去した[14]

逸話

  • 大野勝巳外務事務次官(のち駐英大使)を毛嫌いしていた。大野の方も、後任のラッセルズ大使との会話でデニングの話をする際、デニングを指して「あなたの忌まわしい前任者」と呼んでいたという[15]

栄典

勲章

脚注

注釈

  1. ^ 本事件では、地裁判決以降、水兵への日本の裁判権の有無が争点となった。公判推移としては、同年8月に神戸地方裁判所が懲役2年6か月の有罪判決を下し、続く11月の大阪高等裁判所での控訴審では、懲役2年6か月・執行猶予3年と軽減された判決が言い渡された[7]。一方で、同判決では「国際法上の属地主義により、日本側は裁判管轄を有する」と判示し、イギリス側の唱える「日本に裁判権なし」という主張を退けた[8]
  2. ^ GATTの既加入国が新規加入国との間でGATT関係を結ぶことに同意しないときは,その2国間はともに協定締約国でありながら協定を適用しなくともよいとする条項。
  3. ^ 一連のイギリス政府の対応には現役閣僚からも異論があり、イーデン政権英語版ランカスター公領担当大臣第10代セルカーク伯爵ジョージ・ダグラス=ハミルトン)は「アジア民族に対する一種の差別であると日本人は考えているし、差別意識を取り下げるさせるためなら、彼らはどんなことでもやりかねないであろう」と述べたという[13]

出典

  1. ^ バックリー (2007), p. 309、316.
  2. ^ バックリー (2007), p. 341.
  3. ^ Semi-official Papers Relating to Sir Esler Dening GCMG OBE, 1943 - 1946” (英語). Imperial War Museums. 2025年10月23日閲覧。
  4. ^ バックリー (2007), p. 342-343.
  5. ^ “No. 39569”. The London Gazette (英語). 10 June 1952. p. 3185. 2025年10月23日閲覧.
  6. ^ 内山 (1985), p. 400.
  7. ^ 内山 (1985), pp. 402–405.
  8. ^ 内山 (1985), pp. 406-408、417-418.
  9. ^ 黒石 清作: “伯剌西爾時報” (pdf) [3066号]. 伯剌西爾時報社. p. 1 (1952年9月12日). 2025年10月23日閲覧。
  10. ^ バックリー (2007), p. 345-346.
  11. ^ a b c d e 「GATTへの加入」(上・下)”. Ministry of Foreign Affairs of Japan. 2025年10月30日閲覧。
  12. ^ バックリー (2007), p. 345.
  13. ^ a b バックリー (2007), p. 347.
  14. ^ “No. 47147”. The London Gazette (英語). 11 February 1977. p. 2079.
  15. ^ バックリー (2007), p. 358.
  16. ^ “No. 34585”. The London Gazette (英語). 30 December 1938. p. 14.
  17. ^ “No. 31843”. The London Gazette (Supplement) (英語). 30 March 1920. p. 3998. 2025年10月30日閲覧.
  18. ^ “No. 40497”. The London Gazette (英語). 3 June 1955. p. 3261.
  19. ^ “No. 39092”. The London Gazette (英語). 15 December 1950. p. 6269.
  20. ^ “No. 37119”. The London Gazette (英語). 8 June 1945. p. 2938.

参考文献

外交職
先代
サー・
アルバニー・ガスコイン英語版
英国渉外事務所政治代表
1951年–1952年
次代
大使に昇格
先代
再設
駐日大使
1952年–1957年
次代
サー・
ダニエル・ラッセルズ英語版



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