神戸イギリス水兵強盗事件
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神戸イギリス水兵強盗事件(こうべイギリスすいへいごうとうじけん)は、1952年(昭和27年)6月29日未明 、兵庫県神戸市でイギリス海軍の水兵2名がタクシー強盗を働いた事件。サンフランシスコ平和条約発効後に発生し、裁判権をめぐって日本とイギリスが対立した結果、外交問題に発展した [1]。本事件では、「外国軍艦の乗員が上陸中に行った公務外の犯罪」に対し、日本がどの範囲で裁判権を行使できるかという国際慣習法上の解釈が焦点となった[2]。
概要
1952年6月29日午前2時ごろ、神戸港に寄港中の巡洋艦「ベルファスト」の水兵2名が三ノ宮駅付近からタクシーに乗車 [1]。第四突堤で下車する際に運転手から売上金約1700円を奪い、タクシーを奪って新開地方面へ逃走した [1]。
神戸市警はその夜のうちにバーに戻った犯人2人を逮捕し、7月2日神戸地方検察庁が起訴。神戸地方裁判所は同年8月5日、検察の懲役5年求刑に対し、懲役2年6か月の有罪判決を下した[3] [1]。
サンフランシスコ平和条約発効(同年4月28日)により日本は主権を回復していたが、外国軍人に対して日本の裁判権を行使したのはこれが初めてであり、国内外から大きな注目を集めた。
外交問題と影響
判決の翌6日、駐日イギリス大使サー・エスラー・デニングが事件について正式に抗議。「英国水兵は日本の裁判権の外にある。国際慣習上、外国軍艦乗員の犯罪はその所属国の管轄に属する」と主張し、速やかな身柄引き渡しを求めた[4]。 同時にロンドンでは外相アンソニー・イーデンが松本俊一駐英大使を呼び出し、「独立国間の信義に関わる問題」として厳重に抗議した。事件はチャーチル内閣を巻き込み、日英関係の一時的悪化を招いた [1]。
一方、日本国内では岡崎勝男外相が8月7日の記者会見で「事件はたった1700円を奪った小さな問題であり、政府としては慎重に扱いたい」と発言し、これが「主権国家の外相として軽率」と非難を浴び、日本国内で国民の事件への関心を高めた要因となった。これに対し、神戸弁護士会は8月8日に次の声明を発表した[3]。
一、本会は神戸地検の起訴および神戸地裁の裁判権行使を正当と認め支持する。
二、自主独立国家としての司法権の確立と属地主義の徹底を期する。
さらに補足として、英国領事の「日本でどうできるものか」という傲慢な態度を非難し、英側の要求を「独立国日本を侮るもの」と断じた[3]。また渋沢正雄外務次官ら外務省も日本は国際法上裁判権ありとの見解をとった [4]。
その後の大阪高等裁判所控訴審では外交的圧力の影響もあり、懲役2年6か月・執行猶予3年と軽減された判決が11月5日に言い渡され、水兵はイギリス側へ引き渡された。当時のロバート・ダニエル・マーフィー駐日アメリカ大使は「英国の抗議は正当」と述べ、日英両国への米国の外交的影響力を示唆した [1]。また同年、この直後に神戸で米兵による暴行事件も発生している。
参考文献
- 『自由と正義』第3巻第9号(日本弁護士連合会、1952年9月)59頁
- 『桃李 2(10)(19)』(日本学協会、1952年10月)22頁
- 『信毎年鑑1953年版』(信濃毎日新聞社、1952年)37頁
脚注
- 神戸イギリス水兵強盗事件のページへのリンク