神戸アジアタウン
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/10/03 03:16 UTC 版)
神戸アジアタウン(こうべアジアタウン)は、神戸市で行われていた都市計画。
概要
阪神・淡路大震災が起きてからの神戸市長田区の産業の復興と展望は困難を極める。人口が減少して商業も厳しくなる。そこで県や市の提唱するアジアに焦点を置いて、長田区での国際交流センターや靴のまち構想を視野に入れて、商工住の活性化に寄与する産業と観光の複合的なファッションリゾートの文化の発信の拠点としてのアジアタウンを実現して、産業の復興に寄与したいと構想される[1]。
1995年6月に提出された復興プランでは4分科会が発足して、それにはアンテナショップというのもあった。アンテナショップではアンテナショップ街が計画されていた。だがこれだけでは集客力に疑問を持つ声が上がっていたために、1996年2月には靴のまちである長田の上位概念になるような復興に向けてのコンセプトが模索されるようになり、そこで登場したのがアジアストリートであり、これがアジアタウン構想へとなって行った[2]。
阪神・淡路大震災からのコミュニティと在日韓国人・朝鮮人の復興計画では、まず長田区を中心として展開するケミカルシューズ産業の生産ネットワークを特徴付けられた。この産業は絶え間なく参入と退出が行われていたのは、在日にとって参入が容易であったためで、多くの在日もそこで働いていた。阪神・淡路大震災でこのネットワークが活動停止に陥ったためにアジアにおいての競争で遅れをとっていた。復興プランとして出されていたのは中堅メーカーの産業プランと弱小メーカーの生業プランであったのだが包摂されたかった。このような中で生活の場とは地域社会であるとして、地域社会と連携した復興プランであるアジアタウンの構想が打ち出された[3]。
神戸アジアタウンとは在日韓国人によって構想されていたことであり、当初はコリアタウンをつくる構想であったのが変わって行っていた。コリアタウンのように民族にとらわれていてはだめで、つくるならばアジアタウンという考えに変わって行っていた。住んでいるのは日本人でも韓国人でもなく地域住民であり、外国人のためにアジアタウンをつくるのではない方向になる。日本もアジアに含まれているために、日本人が中心となって、日本人と韓国人が一緒に国際的な物をつくりたいという構想に変わって行ったのであった[4]。
脚注
- ^ “神戸アジアタウンと長田のまちづくり”. 2025年10月3日閲覧。
- ^ “被災コミュニティと在日韓国・朝鮮人の復興戦略”. 2025年10月3日閲覧。
- ^ “エスニック・コミュニティと震災復興”. 2025年10月3日閲覧。
- ^ “(15)アジアタウン|震災1年目|阪神・淡路大震災|連載・特集|神戸新聞NEXT” (Japanese). www.kobe-np.co.jp (1995年11月1日). 2025年10月3日閲覧。
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