ニコラウス・エステルハージ
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ナビゲーションに移動 検索に移動ニコラウス2世・エステルハージ Nikolaus II. Esterházy |
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ガランタのエステルハージ侯 | |
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在位 | 1794年 - 1833年 |
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出生 | 1765年9月12日![]() ![]() |
死去 | 1833年11月25日(68歳没)![]() ![]() |
配偶者 | マリア・ヨーゼファ・フォン・リヒテンシュタイン |
子女 | パウル・アントン ニコラウス |
家名 | エステルハージ家 |
父親 | アントン1世・エステルハージ |
ニコラウス・エステルハージ(ドイツ語: Nikolaus Fürst Esterházy de Galántha、ハンガリー語: Eszterházy Miklós エステルハージ・ミクローシュ、1765年9月12日 - 1833年11月25日)は、オーストリア軍元帥。ニコラウス・ヨーゼフ・エステルハージの孫であり、祖父をニコラウス1世と称するのに対してニコラウス2世とも呼ばれる。
生涯
1783年、リヒテンシュタイン侯フランツ・ヨーゼフ1世の娘マリア・ヨーゼファと結婚し、後継者のパウル(3世)・アントン(1786年 - 1866年)らをもうけた。
父のアントンが1794年に没すると、エステルハージ侯爵を襲位した。ニコラウスは解散された楽団を再建しようとし、ロンドン滞在中のフランツ・ヨーゼフ・ハイドンに手紙を書いて再び楽長に就任するように依頼した。ロンドンから戻ったハイドンは楽長に就任した。祖父と異なってニコラウス2世は冬の間はウィーンに滞在することを好んだため、ハイドンはほとんどウィーンを離れずにすんだ。しかし音楽の趣味はかなりかたよっていて、古い時代の宗教音楽を好んでいた。新しい主人の好みに合わせ、晩年のハイドンは6曲のミサ曲を作曲した[1]。1804年には老齢のハイドンにかわってフンメルがコンサートマスター(のちに楽長)に就任した。フンメルもまたミサ曲を作曲した。ベートーヴェンにもミサ曲の作曲を依頼し、ミサ曲 ハ長調(1807年)が作曲されたが、ニコラウス2世の気には入らなかった。
1809年、ナポレオン1世からハンガリー王位を提供されたが拒否、ハプスブルク家を支持した。
美術品を多く集め、これは1871年にハンガリーの国有財産となった。
脚注
- ^ 大宮真琴『新版 ハイドン』音楽之友社〈大作曲家 人と作品〉、1981年、144-147頁。ISBN 4276220025。
関連項目
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エステルハージ・ミクローシュ(1765年 - 1833年)
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「エステルハージ」の記事における「エステルハージ・ミクローシュ(1765年 - 1833年)」の解説
アンタルの息子。若い頃は近衛隊の将校として勤め、グランドツアーへと旅立った。後に、帝国の外交官として勤めることになる。ミクローシュはクラリネットをたしなんでおり、彼の肖像画の一つから明らかにされている。
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