ウィンチェスター社との決別
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/10/30 18:42 UTC 版)
「ジョン・ブローニング」の記事における「ウィンチェスター社との決別」の解説
ジョンの銃器の自動化はショットガンにも使用されるようになり、それまで使用していた「ガス・オペレーション式」とは違う後方圧力を利用した「ブローバック式」を開発し、この機構を取り入れたショットガンの開発に成功している。しかしこの頃からジョン・ブローニングとウィンチェスター社の社長のベネットとの関係は、契約金の支払いなどの関係からこじれ、非常に悪化していた。そして新たにジョンが開発した自動式ショットガンの製造権を、ベネットが買取を拒否したことが決定的となり1882年以降19年間続いたウィンチェスター社との良好な関係に終止符が打たれた。 この新型ショットガンはニューヨークのリヨンにあるレミントン・アームズ社にも持ち込みを行うが、提出直前にレミントン社長であるマーセラルが突然死去してしまった為に機会を失ってしまう。そこでジョンはアメリカ国内でも販売をあきらめ、渡欧、先に自動式拳銃の契約に成功していたベルギーのFN社でようやく契約に成功する。このショットガンはFNブローニング自動五連式銃(FN browning Auto 5)として生産が開始した。一方、1904年にはレミントン社でも製造を開始し、こちらはレミントンM11として販売された。 FN社との繋がりが深くなったことからジョンはオグデンからベルギーFN社の近くに家族とともに移住し、そこでM1900の後継としてFN ブローニングM1910を開発した。後に設計・開発した有名なものでは、長らくアメリカ軍の制式拳銃であったM1911、1917年にアメリカ軍に制式採用されたブローニングM1918自動小銃(BAR)などがある。これほどのものを開発しながら、ジョンはモルモン教徒らしい寛容さでM1911やBAR、水冷式機関銃の製造権利をたった75,000ドルで軍に譲り渡した。ある資料によると、民間企業に売れば軽く1000万ドルは超えたはずであるという。
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