イブラヒムの統治
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/23 17:10 UTC 版)
弘治5年(1492年)、エセン・ハーンの息子のウマサンジャ(アマーサンジー)とヴァイス・ハーンの娘のマフトゥームとの間に生まれたイブラヒムとイルヤースが父と諍いを起こし、オイラト部から逃れてメクリン部に亡命した。同年、クムルの忠順王シャンバはメクリン部と姻戚関係を結び、同時にイブラヒムとイルヤースと倶に明朝に使者を派遣した。弘治6年(1493年)、トルファン・ハン国のアフマドはコムルを襲撃して攻囲し、追い詰められたシャンバはメクリン部・オイラト部に救援を要請したもののメクリン部も敗れシャンバはアフマドの捕虜となった。これ以後、トルファンとメクリン部は対立関係にあり、屡々干戈を交えていた。 イブラヒムはメクリン部の長になるとともにベグ・アルスラン、イスマイル死後のヨンシエブの長にもなり、モンゴル高原の諸侯の勢力削減を図るダヤン・ハーンと対立するようになった。弘治8年(1495年)、メクリン部及びヨンシエブ部の長であるイブラヒムとモンゴルのダヤン・ハーンとの抗争は激化し、イブラヒムは明朝に入貢と互市の許可を申請して活路を開こうと図った。イブラヒムは同じくダヤン・ハーンに反抗するオルドス部のマンドライ・アカラクと手を組み活動していたが、最終的にダラン・テリグンの戦いでダヤン・ハーンに敗れ、僅かな部下を率いて青海地方に逃れざるを得なくなった。 これ以後のメクリン部の動向は不明であるが、モンゴル語史料においてメクリン部出身の人物(ベグ・アルスラン等)の所属が「ウイグト」や「オイラト」とされていることから、ウイグル人やオイラト人に同化・解体されたものと推測されている。
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