イスラエル建国へ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/01/04 16:15 UTC 版)
「ハイム・ヴァイツマン」の記事における「イスラエル建国へ」の解説
第二次世界大戦では、イギリス軍需省の名誉顧問となり、合成ゴムとハイオクガソリンを研究した(天然ゴムの産地であるマレー植民地が日本に占領されたため)。また、イギリス軍内のユダヤ旅団の組織を促進した。彼の息子2人も軍務に就き、1942年、アメリカ大統領フランクリン・ルーズベルトとの会見に出発しようとしたとき、ヴァイツマンは息子マイケルの飛行機が撃墜されたと知らされたが、仕事を続けた。 1947年、国連のパレスチナ分割案に対し、パレスチナ国家の独立は認めたが、ネゲブをイスラエルに含めるよう主張した。ハリー・トルーマン大統領と会見して支援を取り付け、主張を認めさせることに成功した。 1948年、イスラエルの初代大統領に就任した(ただし、イスラエルの大統領は名誉職としての性格が濃く、実務はおもに首相がする)。1949年、ヴァイツマンの75歳の誕生日を記念して、ダニエル・シーフ研究所がヴァイツマン科学研究所と改名した。 1952年、大統領在職中、78歳で死去。自身の希望により、遺体はレホヴォトの自宅に埋葬された(1966年に死去した妻ヴェラも埋葬されている)。 甥のエゼル・ヴァイツマンは、第7代イスラエル大統領(1993年 - 2000年) である。
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