イキマ島の誕生
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/02/24 14:18 UTC 版)
1719年から1720年にかけて清の冊封副使として琉球王国に赴いた徐葆光は、帰国後の1721年にその記録を『中山伝信録』としてまとめ、その中で「〔伊奇麻〕訳伊喜間。在太平山東南。」(伊奇麻、訳して伊喜間という。太平山(当時の宮古島の呼び名)の東南に在り。)と記した。しかし、『中山伝信録』に付された「琉球三十六島図」という地図では「伊奇麻」は「太平山」の北西に描かれており、徐葆光は『中山伝信録』本文では池間島の位置を誤って記載としたものと考えられている。 フランス人イエズス会士で清にわたったアントワーヌ・ゴービル(英語版)が1751年にフランス語で著した『シナ人が琉球諸島と呼ぶ諸島についての覚書』には、『中山伝信録』が抄録されたが、ここでも宮古島の南東にイキマ島が記され、その存在がヨーロッパに広まることになった。ジェイムズ・バーニーが1897年に製図し、1909年に発行された『東亜輿地図』にも同様の位置にイキマ島が描かれている。
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