アンズリー事件
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/05/30 08:58 UTC 版)
注釈者の一部は、『レア王』が1605年に出版されたのはシェイクスピアの似た劇によって集まった関心を利用するためで、これはシェイクスピアの『リア王』が1605年に上演されたことを意味するのではないかと主張している。1605年に「注目に値する歴史的類似点」が『レア王』の出版に「時事的な理由」をもたらし、シェイクスピアも1605年ごろ、この話に関心を持ったのだろうという意見もある。 ブライアン・アンズリーは、裕福な初老のエリザベス1世の元支持者のケント人で、Sir John Wildgosと結婚した長女のグレイス、第3代サンデイズ男爵ウィリアム・サンデイズと結婚した次女クリスティアン、そして未婚の三女コーデルの3人の娘がいた。1603年、グレイスは父親に高齢のため財産の管理ができないと宣言させようとした。コーデルは長姉の行動に抗議するよう、さもなければ父親が長姉に対抗するのを支援するよう、ロバート・セシルに手紙を書いた。1604年7月にブライアン・アンズリーは亡くなった。コーデル・アンズリーは父の遺言書を守ることに成功し、財産の大部分はコーデルのものとなった。 遺言執行人の一人はウィリアム・ハーベー卿(医学者のウイリアム・ハーベーとは同名異人)だった。彼は1588年のアルマダの海戦で戦った退役軍人で、シェイクスピアのパトロン第3代サウサンプトン伯ヘンリー・リズリーの母であるサウサンプトン伯爵未亡人の3番目の夫だった(なお、ハーベーはシェイクスピアの『ソネット集』の献辞の相手「W.H.」氏の候補者の1人でもある)。1607年に伯爵未亡人が亡くなると、ハーベーはコーデル・アンズリーと再婚した。 この『レア王』/『リア王』さながらの現実に起こったスキャンダルは1603年と1604年にはニュースだったはずで、それがシェイクスピアの劇ならびに昔の『レア王』の出版に刺激を与えたのかも知れない。
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