アレグザンダー2世 (スコットランド王)とは? わかりやすく解説

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アレグザンダー2世 (スコットランド王)

(アレクサンダー2世 から転送)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/07/02 22:29 UTC 版)

アレグザンダー2世
Alexander II
スコットランド国王
在位 1214年 - 1249年

出生 (1189-08-24) 1189年8月24日
スコットランド王国、ハディントン
死去 (1249-07-08) 1249年7月8日(59歳没)
スコットランド王国、ケレラ
埋葬 スコットランド王国メルローズ修道院
配偶者 ジョーン・オブ・イングランド
  マリー・ド・クシー
子女 アレグザンダー3世
家名 アサル家
王朝 アサル朝
父親 ウィリアム1世
母親 エルマンガルド・ド・ボーモン
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アレグザンダー2世Alexander II, 1189年8月24日 - 1249年7月8日[1])は、スコットランド王(在位:1214年 - 1249年)。ウィリアム1世と、イングランドヘンリー1世の庶子コンスタンスの孫娘エルマンガルド・ド・ボーモン (enの長男。

生涯

1214年に父ウィリアム1世が77歳で没した後、16歳で王位を嗣いだ。1219年、イングランド王ヘンリー3世の妹ジョーンを王妃に迎え、イングランドと友好関係を復活した[2]1236年にヨーク条約でイングランドとの国境線を確定した[3]

アレグザンダーは外交上の懸案を取り除いてから、父が確立した行政機構を活用して内政を充実させていった。1238年に王妃ジョーンと死別すると、フランス貴族の娘マリー・ド・クシー (enと結婚した。ヘンリー3世はこれをイングランドへの敵対行為と見なし、アレグザンダーへ言いがかりを続けた[3]1244年に、ようやくニューカッスルで和解した[4]

同年、ノルウェーからのヘブリディーズ諸島の奪還を目指して、スコットランド西部へ軍を進めた[4]。しかし、その途中ケアララ島で没した[4]。後妻マリーとの間にもうけた一人息子のアレグザンダー3世が7歳で王位を嗣いだ。

家族

1221年6月21日、ヘンリー3世の妹ジョーンと結婚した。2人の間に子はいなかった[5]

1239年5月15日、フランス貴族アンゲラン3世・ド・クシーの娘マリー・ド・クシーと結婚し[6]、1男をもうけた。

マリー・ド・クシーはアレグザンダーの死後、フランス貴族ジャン・ド・ブリエンヌ(1230年頃 - 1296年、エルサレム王ジャン・ド・ブリエンヌの息子)と再婚した。

脚注

  1. ^ Alexander II | king of Scotland”. Britannica. 2025年7月2日閲覧。
  2. ^ 森、pp. 85 - 86
  3. ^ a b 森、p. 86
  4. ^ a b c 森、p. 87
  5. ^ トランター、p. 82
  6. ^ タックマン、p. 12

参考文献

  • 森護 『スコットランド王室史話』 大修館書店、1988年
  • ナイジェル・トランター 『スコットランド物語』 大修館書店、1997年
  • バーバラ・W・タックマン、徳永守儀 訳 『遠い鏡』 朝日出版社、2013年



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