アルプ・アルスラーン
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/14 18:07 UTC 版)
「大セルジューク朝」の記事における「アルプ・アルスラーン」の解説
詳細は「アルプ・アルスラーン」を参照 チャグリー・ベグの息子のアルプ・アルスラーンは、アナトリア半島のほぼ全域を併合するアルメニアとグルジアを1064年に加え東ローマ帝国に1068年に侵攻することで明確にトゥグリルの領土を拡大させた。1071年のマラズギルトの戦いでのアルスラーンの決定的な勝利は、事実上トルコのアナトリア半島侵攻に対して東ローマ帝国の抵抗を中立化させた。グルジアはイベリア州(英語版)を防衛することでアルプ・アルスラーンの侵攻から奪還できたが、アナトリア半島から東ローマ帝国が撤退することでグルジアがセルジューク族と更に直接接触することになった。1073年、ガンジャやドヴィン、ドミニシのセルジュークアミールは、成功裏にカルスの要塞を奪取したジョージ2世(英語版)との戦いでグルジアに侵攻し敗れた(英語版)。セルジュークアミールアフマドによる報復攻撃は、クヴェリスツィケでグルジアを破った。 忠誠を誓うアタベクとしてアルプ・アルスラーンは嘗ての東ローマ帝国のアナトリア半島からの土地を分割する権限をトルコ人の将軍に与えた。2年以内にトルコ人は数多のベグリク(現在のトルコのベイリク)の下でエーゲ海まで支配を伸ばした(東北アナトリア半島のサルトゥーク朝(英語版)、東アナトリア半島のシャーアルメンス(英語版)とメンギュジェク朝(英語版)、東南アナトリア半島のアルトゥク朝、中央アナトリア半島のダニシュメンド朝、西アナトリア半島の(後に中央アナトリア半島に移動する)ルーム・セルジューク朝(スライマーンのベグリク)、イズミル(スミルナ)のベイリク)。
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