アダル・エチオピア戦争
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/17 00:29 UTC 版)
「アフリカの軍事史」の記事における「アダル・エチオピア戦争」の解説
ヨーロッパの探索はポルトガルが西海岸の地図作成をすることから始まった一方で、大規模介入はかなり後まで起きなかった。1529-1543年のアフマド・イブン・イブリヒム・アル=ガジーによる戦役でキリスト教国のアビシニア(現代のエチオピア)の4分の3をムスリムのアダル・スルタン国(現代のソマリア)の勢力下に置いた。アフマドの軍隊は主にソマリ族で構成されており、オスマン帝国のマスケット銃士と兵士を伴っていた。しかし、ワイナ・ダガ(Wayna Daga)の戦いで、エチオピア・ポルトガル連合軍(ポルトガルのマスケット銃士を含む)は先の戦いで敗北し殺された元ポルトガル司令官クリストヴァン・ダ・ガマの復讐でアフマドの殺害に成功し、アダルの領土を奪還した。 1579年にオスマン帝国はエチオピアへの再攻撃を試みており、今回はマッサワの沿岸基地の北部からであったが、エチオピア軍によって敗北した。1652年にはポルトガルの勢力の衰退に伴い、オランダ東インド会社がヤン・ファン・リーベック率いる三隻の小型船の艦隊を派遣し、南アフリカのテーブル湾に最初の恒久的な植民地を設立し、北方への拡大を始めた。1868年にエチオピアとエジプトはGuraで戦争に突入し、ヨハンネス4世が率いるエチオピアがエジプトを決定的に破った。
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