アシャッフェンブルクの戦い
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/07/03 15:12 UTC 版)
「普墺戦争」の記事における「アシャッフェンブルクの戦い」の解説
マイン軍はベーエル師団を右翼にゲルンホーゼル経由、ゲッペン師団を左翼にザール川沿いで前進し、ヘッセン公の第8軍団が居るフランクフルトを目指した。マイン軍はアシャッフェンブルク経由でフランクフルトの側面を衝こうと企画したが、ヘッセン公アレクサンダーはプロイセンの企画を察知し、12日には鉄道を使ってダルムシュタット軍をアシャッフェンブルクに送り込んで更なる本隊到着まで結線を禁じる命令を出した。しかし、ダルムシュタット軍のベルグラス将軍は戦機を失うことを恐れて13日にプロイセン軍がスベサルトの狭隘地を越えるタイミングを狙って戦端を開いた。プロイセン軍ではゲッペンが逆襲したことによりベルグラスは敗れ、アシャッフェンブルクに退却した。同夜にはアシャッフェンブルクに第8軍団の援軍が到着していたが、既に時を逸していた。14日、プロイセンはアシャッフェンブルクを攻略し、マイン川の橋も確保した。この戦いで第8軍団は1,500人の損害を出した。ヘッセン公アレクサンダーは敗報を聞いてフランクフルトを放棄し、14日の内に第8軍団を率いてマイン川南方を迂回してヴュルツブルクに居るバイエルン王の第7軍団と合流した。 プロイセン軍は16日にハナウを経由して夕方にはフランクフルトを占領し、プロイセン王の名のもとにフランクフルト、ヘッセン、ナッサウの占領、フランクフルト政府の解散、反プロイセン新聞の発行禁止、600万グルテンの賠償金および食料の調達を布告・命令した。17日、マイン軍を指揮していたファルケンシュタインはボヘミア占領地の総督に転任し、代わってマントイフェルが後任となった。マントイフェルは更にフランクフルトに1,900グルテンの支払いを命じ、兵士を5日間休息させた。マイン軍は北方のオルデンブルク、ハンブルク、ブレーメンからの増援を受けて兵力は66,000人に膨れ上がった。ドイツ西部が平定されたため、これらの軍団が東部戦線へ派遣可能となった。
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