どの子にも涼しく風の吹く日かな
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評 言 |
『忘音』(昭和四十三年 牧羊社)所収。 小学生の頃に教科書で出会った俳句だからだろうか。わたしのなかでは白い体操服を着た子どもたちが汗をいっぱいかいて笑っているイメージが刻み込まれている。 子どもというのは「希望」や「未来」を暗示する象徴的な存在である反面、自立するまでは社会的環境や親の影響を受けて生きなければならない弱者でもある。 平成二十六年二月一日発行の『現代俳句 二月号』に第五十回現代俳句全国大会で行われた柳田邦男氏の講演録が掲載されており、そのなかで「ホロコーストの中の言葉」と題して、九歳のエルズニアという子どもの残した詩が紹介されている。 子守歌「暖炉の火花」 むかしむかしのことでした。 名前は小さなエルズーニャ ひとりぽっちで死にました。 マイダネクは父さんの アウシュヴィッツは母さんの 命が消えた場所でした。 ひとりぼっちのエルズーニャ その子も死んでゆきました。 エルズニアは第二次世界大戦のときにナチス・ドイツによりマイダネク強制収容所でガス室に入れられる前に靴の底に、いつの日かこの詩を見つけた人がいたら、ポーランドの子守歌「暖炉の火花」のメロディでこの詩を唄ってほしいと遺書を残した、とのこと。九歳でひとりぱっちでガス室へ行く子どもの姿を想像するとやりきれないけれど、その子どもと離されて別の場所で死ななければならなかった親も切なかっただろうと思う。 掲出句はなにげない日常の一場面を切り取ったものであるかもしれないが、子ども一人一人のかけがえのないいのちや人生を思う時、作者のまなざしがあたたかく慈愛に満ちたものであると感じられた。 |
評 者 |
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備 考 |
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