その他子孫
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/07/07 01:54 UTC 版)
勝時の子、猪右衛門「勝政」、三男「勝尚」は共に織田信雄に仕えた後、天正18年(1590年)に徳川家康から上総国望陀郡に500石を与えられている。勝政、勝尚の子孫は旗本となり、その中から出雲守「時春」(寛保1年(1741年卒))「時庸」(ときつね、宝暦12年(1762年)卒)など大坂町奉行をつとめた者が出ている。また五男「長圓」は野間大坊(大御堂寺大坊)住職であり、同寺中興の祖となった。 また尾張藩士に中山姓を名乗る家があり、これは安井長高の子瀬左衛門長清が母方の姓を名乗ったものであるが、この瀬左衛門の母は、勝時の三男・五平次「勝尚」の子「勝秀」の娘であるとの説もあり、真偽は定かではない。また「寛永諸家系図伝」「寛政譜」共に「勝秀」の名はない。五平次「勝尚」(慶長7年(1602年)卒)の子として記されているのは「勝信」(寛文2年(1662年)卒)と女子1人である。その子孫七大夫和清は長沼流兵学を修めて「前後千を以て数ふ」門弟がいたとされ、明治の末裔元若は、岩滑に居住し、家族ぐるみで新美南吉と親交があった。幼き日の新美南吉に民話を語って聞かせ、影響を与えたのは、元若の妻しゑであったといわれる。彼の童話「ごんぎつね」に「中山さま」が登場するのはこうした背景があったからであろう。
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