お家騒動と晩年
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/07/04 16:50 UTC 版)
宝徳2年に将軍義政が乳母今参局の介入で元尾張守護代織田郷広の復帰を図り、母の日野重子の反対に遭い撤回したが、持国は義政の提案を受け入れている。これについては、義政が守護への対抗上、今参局を通して畠山氏を抱きこむ狙いがあった。 一方、持国には嫡出の男子が無く、弟の持富を後継としていたが、文安5年(1448年)に庶子の義夏(のちの義就)を召し出し持富を廃して後継とする。しかし、一部の家臣の反対に遭い、新たに甥で持富の子の弥三郎(政久)が後継者に擁立され家臣団は弥三郎派と義就派に分裂、ついには義就派の遊佐氏(遊佐国助など)が弥三郎派の神保氏(神保国宗など)の屋敷を襲撃する事件が享徳3年に勃発し、血で血を洗う内紛が始まることになる。 当初は義就派が優勢であったが、畠山氏の弱体化を狙う細川勝元と山名宗全により弥三郎派が盛り返し、8月21日に屋敷を焼き討ちされ、義就は失踪、持国は28日に隠居したが、義政の介入で12月13日に義就が上洛、弥三郎は没落した。翌享徳4年(1455年)に死去、享年58。家督は義就が継いだ。
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